牛野小雪を知る場所

蒲生田岬~夕方午後五時の彼氏~

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念写

 心の中で強く思ったこと、見たことを写し出す現象。

 時には月の裏側、未来の出来事など、自分が経験したこと以外のものを写すことがある。

 写す物は写真フィルムが一般的だが、パン、ケーキ、壁、紙、人肌に念写されたこともある。

 これらのことから念写する材料は特に選ばないものと思われる。

 特別な能力者は意図して念写をするが、本人がその能力に気づいていない場合、意図せず念写してしまうことがあるかもしれない。

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 白い大鳴門橋のすぐ脇で渦潮が白く渦を巻いている。実際にこの目で見る渦潮は想像していたよりも小さくて静かだった。

 秀子は展望台から渦潮を見下ろしていた。隣には奈津美がいる。彼女の提案でここまできたが、すぐに飽きてしまったようだ。

「何もないね」と奈津美がだるそうに言った。「私の想像していた渦潮ってもっとこう大きくて激しいものだと思っていたけど、こうやって見ると大したことない。子どもの頃に見たのはもっと大きくて怖かったんだけどなあ」

 奈津美は手を大きく広げた。

「地球温暖化のせいじゃない?」と秀子がふざけて言うと、奈津美は眉を上げて「まさか。それならチーズケーキが昔と比べて小さくなったのは?」と突然関係のないことを言った。

「それはお菓子屋の陰謀。値段は変えずに少しずつチーズを減らしているの。ケーキは小さく、スポンジは大きく。このままだとチーズケーキがスポンジケーキになってしまうのに誰も声を上げようとしない」

 あなたって世間知らずのお嬢さんなの、という顔で秀子は言った。

「それじゃあスポンジケーキはどうなるの?」と奈津美が返してきたが、なかなか言葉が出てこなくて、一つ深呼吸して時間を稼ぎ「…その頃は……たぶんホットケーキぐらいかな」と秀子はかろうじて返した。

 奈津美がニヤリとした。秀子もニヤリとしていた。片方がふざけたことを言うともう片方もそれに合わせてふざけたことを言う。先に言葉に詰まった方が負け。今までの勝敗からして最初に仕掛けた方が負けるような気がしている。おふざけに先手なしだ。

 奈津美はおしゃれ人間だ。毛先、手の先、爪の先まで意識が通っている。どこをとっても秀子より洗練されている。一緒に歩いていると誰もが奈津美に目を向ける。

 秀子はださくない人間だ。別にそこを目指しているわけではないが、努力してもしなくても、ださくないになってしまう。

 二人はちぐはぐだった。だけどそれは見た目だけで、同じ心を持った二人だった。

 友情にも一目惚れがある。奈津美とは電撃の友情だった。

 大学の教室では学生達が思い思いに席を取っている。みんなバラバラに座っているように見えるが、よく見るとそれぞれのグループで集まり、大学の海でそれぞれの島を形成している。

 秀子は島に名前をつけていた。おしゃべり島。真面目島。居眠り島。色んな島がある。奈津美はおしゃれ島で、秀子はださくない島で生息していた。

 秀子はおしゃれ島に住む奈津美をいつも見ていた。理由はないが奈津美とは気が合いそうな気がしていた。それでも、おしゃれ島には近寄り難くて二人は言葉を交わすことなくずっとそのままだった。

 後期に単位を埋めるために取った授業で、秀子は一人孤島を作っていた。他のださくない島の住人達はその授業を取っていなかった。その授業には奈津美もいた。彼女もおしゃれ島の住人がいなかったので孤島を作っていた。

 ある日、奈津美がその授業を休んだ。次の週は休まずにきた。奈津美は授業が始まる前に秀子の後ろに座ると「ねぇ、先週の授業出た?」と声をかけてきた。

「出たよ」と秀子は答えた。

「良かった。それじゃあノート見せてくれない?」

「良いよ」

 それが二人の最初に交わした会話だった。

 奈津美は初めから馴れ馴れしい話し方だったが、秀子はそれを自然に受け入れられた。秀子も同じように馴れ馴れしく話した。奈津美も嫌な顔はしなかった。

 秀子は奈津美と気が合う。奈津美も秀子と気が合う。二人は自然と仲良くなる。

 この友情三段論法で奈津美とはすぐに仲良くなった。

 二人は来年大学を卒業する。就職先は決まっていた。

 何社受けても面接を通らなかったのに、一度内定が取れるとどんどん受かり始めた。秀子は合計六件の内定が取れて、そのうちの四件に内定辞退の電話をかけた。採用してもらうのも大変だが、内定を取り消してもらうのも大変だった。

 遠まわしに嫌味を言われたのが二件。「そういう時代ですからね」と円満に了承してくれたのが一件。罵倒されたのが一件。その会社には「会社までこい!」と怒鳴られたが、怖いのでまだ行っていない。

 残った二件のうち、どちらへ行くかは決めているが、秀子はまた罵倒されるのではないかと不安だったので、まだ電話をしていない。

 二人とも卒業に必要な単位は取ってあるのでかなり暇だった。

 今日の昼過ぎに二人は奈津美の部屋にいた。奈津美は部屋をいつも綺麗に整えている。そんな中でカーテンに星や三日月の小物をぶら下げていたり、枕元に亀のぬいぐるみがあったりするのはちょっと不思議だった。部屋にクローゼットはあるが、その中は服と靴とバッグが目いっぱいに詰められていて、それだけでは足りないのか大きなタンスが一つある。一人暮らしの部屋には不釣合いな大きさだが、彼女みたいなおしゃれ島の人間にはこれでも小さいのかもしれない。

 二人はその部屋で若さを浪費していた。たまたま点けていたテレビのニュースで、画面いっぱいに広がる渦潮の画面とオーケストラの音が流れていた。それを見た奈津美が渦潮を見に行こうと言いだしたのだ。

 それで二人は鳴門公園まできた。駐車場から展望台まで歩いて渦潮を見たのだが、頭の中の渦潮と実際に見る渦潮は全然違うので拍子抜けした。

「すみません、写真撮らせてもらっても良いですか?」

 男の人が話しかけてきた。さっきから渦潮を撮っていた人だ。三脚とショルダーバッグを背負って、首にはカメラを二つも吊り下げている。いきなりだったので秀子は身構えた。ポロシャツのボタンをすべて外して胸元を出しているのが気になった。

「自分で言うのはおかしいけど、あやしい者じゃないよ。ああ、そうだ。名刺」

 彼はショルダーバッグから名刺を出して二人に渡した。角が丸まった名刺には『塩田スタジオ カメラマン 塩田信夫』と書いてあった。

「ふりがなは振っていないけど、しおたのぶおって読むんだ。カメラマンのことなんて気にしないだろうけど、ほら、東マリコって知ってる? 僕、彼女の写真も撮ったことがあるよ」

「えっ、東マリコってあの東マリコ?」

 奈津美が大きな声を出した。秀子もその名前は知っている。徳島県出身で今売れっ子のファッションモデルだ。地元出身ということで彼女が出ると秀子もつい気になってしまう。台詞は棒読みだったが映画にも出たことがある。

 一時期ファッション雑誌の表紙が彼女で埋まったこともある。秀子はファッション雑誌を買わないが、その時だけは一冊買ってしまった。彼女は間違いなくおしゃれ界の住人、その頂点に住んでいる人だ。

「今も彼女の写真を撮っているんですか?」と秀子は聞いた。

「いや、さすがに今は撮れないよ。東京に行ってしまったからね。だけど、有名になる前は地元の服屋、呉服屋のモデルをしていたよ。彼女だけは頭一つ抜けていたなぁ。そうそう美容室のモデルもやってた。知らない? その写真を撮っていたのが僕さ。あの頃は本当に楽しかったなぁ。将来のビッグモデルを間近で見ていたからね。夢中でシャッターを切ったものだよ」と塩田さんは言った。

「ねぇ、ちょっと凄い人なんじゃない?」

 奈津美は声をひそめながら秀子に同意を求めた。

「写真の腕は使っていないと落ちるからね。それで写真を撮らせてくれそうな人をいつも探しているんだ。日本人は恥ずかしがり屋だからなかなか撮らせてくれなくて困るよ。どう? これから時間はある? もし良かったら撮らせてくれないかな? もし心配なら撮った写真は後で消すよ。僕は修行できたらそれでいいんだ」と塩田さんは言った。

「どうする?」

 奈津美は秀子に聞いたが、既にやる気満々だった。カメラで撮影されるのは恥ずかしいが奈津美が乗り気なので「ちょっとだけなら」と秀子は同意した。

 塩田さんの指示で二人は大鳴門橋を背景にして立った。奈津美はファッション雑誌みたいなポーズを取っていたが、秀子は棒立ちでピースするぐらいが精一杯だった。塩田さんは何枚か写真を撮ると「次は一人ずつ撮ってみようか」と言った。

「ひでちゃん先に撮ってもらいなよ」

 奈津美に背中を押されて秀子は一人でカメラの前に立った。

「う~ん、表情が固いよ~」と塩田さんは言った。

 秀子が緊張しながらも笑顔を作ると、すぐにカシャッと写真を撮る音が鳴った。友達同士で写真を撮る時は顔を決めた状態でしばらく待たされるが、塩田さんは表情ができた瞬間に写真を撮ってくれるので気持ち良かった。

「次はポーズ取ってみようか」

 カメラから目を離さずに塩田さんが言った。ドラマに出てくるカメラマンみたいな台詞だったので、秀子はつい笑ってしまった。塩田さんはその笑顔も逃さずに撮った。

「今の最高に良い笑顔だよ~」

 塩田さんが褒めてくる。秀子は雑誌に載っている東マリコを思い出していた。塩田さんは秀子がポーズと表情が決まるたびにシャッターを切っていくので、なんだかモデルになったみたいで楽しくなった。笑顔だけではなくて悲しそうな顔、強く前を見据える顔、憂いをおびた顔、いたずら顔、アヒル顔、思いつく限りのポーズや表情を思いっきりわざとらしく作った。そのたびにシャッター音とおおげさな褒め言葉が後を追う。

 秀子はふと奈津美を見た。彼女は自分が撮られる時のために秀子と同じポーズと表情を練習していた。

「ごくろうさま! ちょっと疲れたかな。一度休憩にしよう」と塩田さんが言った。

 せいぜい十分ほどだと思っていたが、時計を見ると半時間も経っていた。

 秀子達は日陰に移ると今まで撮った写真を見せてもらった。奈津美も塩田さんを挟んでカメラの液晶画面を覗き込んだ。

「雑誌に載っている写真みたい」と奈津美が言った。

 確かに友達と携帯電話で撮り合う写真とは違う。表情が凄く良い。今までの人生でこんなに写真写りの良い顔はなかった。

「ひでちゃん、凄くかわいい」と奈津美が高い声を出した。

「うん、とっても良いよ」と塩田さんも低い声で賛同する。

 秀子は気恥ずかしくなって顔が熱くなった。

「ひでちゃん、顔が真っ赤」と奈津美がからかった。塩田さんがカメラをこちらに向けて写真を撮ろうとしたので「やめてください」と秀子は顔を横に向けた。

「どうする? この写真消そうか?」と塩田さんが言った。

「その写真、私の携帯電話に送れますか」と秀子は聞いた。

「今持っている機械じゃ無理だね。一度スタジオに帰れば君の携帯電話に送れると思うよ」と塩田さんは言った。携帯電話に送るということは塩田さんにメールアドレスを教えなければいけない。いきなり会った人にそれを教えるのは抵抗があったので「じゃあ、いいです。消してください」と秀子は言った。

「本当に良いの? アドレスを教えるのに抵抗があるなら僕のスタジオにくればいいよ。そうしたら画像データだけじゃなくて写真も作ってあげる。雑誌ぐらいの大きさにして作ってあげるよ」と塩田さんは言った。

「ひでちゃん、写真にしてもらったら? もったいないよ」と奈津美は言った。秀子は一度塩田さんを見た。ボタンをすべて外したポロシャツを見ていると、胸の辺りが嫌な気分に襲われた。

「消してください」と秀子は重ねて言った。

「そう」

 塩田さんは残念そうに声を出すと、新しい写真から順番にデータを消していった。ある写真にさしかかると「あっ」と秀子は声を出した。一番良い笑顔で撮れている写真だった。「やっぱりやめる?」と塩田さんが言った。

 しかし秀子は人生で一番写真写りの良い笑顔を目に焼き付けると「よく撮れているから、つい……でも消してください」と言った。

「これがベストショットだよ。消すには惜しいなぁ。でもしかたないね」と塩田さんはその写真を消した。

『削除しました』の文字が出ると、すぐに次の写真へ切り替わった。残りの写真はいつも通りの写真写りで、表情が固い。軽い虚しさを感じている間に秀子の写真はすべて消えた。始めに撮った二人の写真も消えた。

 休憩が終わると、今度は奈津美がカメラの前に立った。始めはぎこちなかった表情は、塩田さんがシャッター音を出すたびに柔らかくなっていった。デジタルカメラなのにわざわざシャッター音を出すのは、お互いの気分を高めるためではないかと秀子は思った。

 おしゃれ界の人間だけあって奈津美は絵になった。塩田さんのわざとらしい褒め言葉も半分くらいは心がこもっていた。表情はもちろん、ポーズも雑誌から出てきたみたいに決まっている。秀子とは大違いだった。

 何もすることもないので秀子は渦潮を見ていた。シャッター音が不規則に聞こえて「いいねぇ」と塩田さんのわざとらしい褒め言葉が後に続く。それでも遠い景色を見ていると意識が遠くなっていった。

 秀子はぼんやりとした意識の中で、内定辞退の電話をどうやってかけようかと考えていたが、色々考えるよりも勢いで乗り切ってしまおうという気持ちになった。今日は平日の昼前だから人事担当の人もいるはずだ。

「ごめん、ちょっと電話」

 二人に声をかけて、秀子はその場を離れた。

 人目のない場所へ行くと秀子は電話をかけた。呼出し音が五回鳴った後に電話がつながった。若い男の声で会社名と何かご用件でしょうかというお定まりの前口上が流れた。秀子は、先日内定を頂いた者だと名乗り、人事担当の人を出してもらえませんかと言った。少々お待ちくださいという声の後に通話保留のメロディーが流れてきた。

 奈津美と塩田さんは楽しそうに撮影をしている。秀子は渦潮に目をやった。

 メロディーが切れて電話がつながった。人事担当の人だった。秀子は内定辞退の旨を伝えた。今までかけた内定辞退の電話と違って言葉が流れるように出てくる。自分でも不思議だった。相手は残念そうな声で引き止めてきたが、もう決めたことですからと言い切ると相手は折れた。それで、罵倒されることもなく、遠まわしに苦情を言われるでもなく、あっさりと内定辞退が決まった。胸の中がすっきりとした。

 秀子が二人のところに戻ると「はぁ~あ、疲れた」と奈津美が声を漏らした。

「お疲れ、いい写真が撮れたよ」と塩田さんがねぎらいの言葉をかける。撮影は一時間ぐらいだと思っていたが、時計を見るとまだ半時間しか経っていなかった。

 さっきと同じように日陰へ移り、三人でカメラの液晶画面を覗いた。一つ一つ写真を見ていくと、ある写真で「いいね」と塩田さんが口を開いた。

「ほんとに、すごく良い」と奈津美も言った。秀子もその写真を見て「良い写真」と思わず声が出た。雑誌に掲載されているモデルのような洗練さはないが、これはこれで良い写真だった。奈津美の笑顔と体からあふれ出る生命力がそのまま写真に収まっている。

「どうする? 写真消す?」

 一通り写真を見終わると塩田さんが言った。

「写真にして貰おうかな」

 奈津美は少し悩んでから、そう口にした。

「写真にして貰うのって、どれくらいですか?」

「無料でいいよ。モデル料ってことで」

「それなら、写真にしてもらえますか」

「うん、明後日に僕のスタジオにきてよ。住所は名刺に書いている場所だから」

 受け取った名刺を裏返すと確かに大雑把な地図が書かれていた。

「道路を挟んで正面に銀行があるから、そこを目印にすれば分かるよ」

「ひでちゃん、分かる?」奈津美が聞いた。

「大体の場所は」と秀子は答えた。

「一緒にきてくれる?」

「うん」

「よかった。それじゃあ明後日に待っているから」

 そう言って塩田さんは二人から離れていくと別の人に声をかけた。

 その後、秀子と奈津美はうどん屋に入った。せっかく鳴門まできたのだから鳴門うどんを食べることにした。席に座ると二人は同じ物を頼んだ。

「あんなことってあるんだね」と奈津美は言った。

「なんだか緊張した」と秀子は言った。

「でもひでちゃん、途中からは乗り気だったじゃない」

「なっちゃんは撮られる前からやる気満々だった。私が撮られている間に色々練習していたの、見てたんだからね」

「気づいてたんだ。実は最初にひでちゃんを先に行かせて、私は様子を見るつもりだった」

「それずるい、私なんて始めはカチカチだったんだから」

「ごめんごめん、でもあの人、写真撮るの上手かったよね」

「うん、いい表情ができたらすぐに写真を撮ってくれるから気持ち良かった」

「ひでちゃんも写真作ってもらえば良かったのに。なかなかあの顔で写真に写ることなんてないよ」

「あの人なんとなく信用できない。ポロシャツのボタンを外して胸元を出していたの気にならなかった?」

「なった。あのデザインは襟立てを前提に作られているのに、それを寝かせているんだから野暮だよね。そういうところが有名になれないカメラマンって気がする」

 奈津美はそう言ったが秀子には分からなかった。塩田さんと別れてまだ一時間も経っていないが、襟が立っていたかどうかは思い出せない。そういう細かいところで、おしゃれとださくないの分かれ目が決まるのかもしれない。

 うどんが二人の席に運ばれてきた。どんぶりが机に置かれると、だしの熱さと香りが顔いっぱいにぶつかってくる。二人は存分に音を立てながらうどんをすすった。

「ねぇ、彼氏とはまだ付き合っているの?」

 うどんを食べ終えると突然奈津美が聞いてきた。

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蒲生田岬の創作ノート
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