牛野小雪を知る場所
エバーホワイト
1‐1 もう何年も昔のことだ
教室が夕日でオレンジ色に染まっていた。正文(まさふみ)は『考える算数』を前にして教室の机に座っていた。うつむいた視線の先にあったのは底辺8cm、上辺5cmの台形の面積を求める問題だったのを今でも憶えている。
その『考える算数』をどうやって終わらせたのかも憶えている。正文が台形の面積を出せなくて頭を悩ませていると、長谷川(はせがわ)さんという女の子が教室に入ってきた。放課後もだいぶ過ぎた時間で、どうしてまだ学校にいるのか不思議だったが、さらに不思議だったのは彼女が正文の机まで来て「森君、まだできてないの?」と訊いてきたことだ。正文が「うん」と答えると「これ貸してあげる」と長谷川さんは彼女の『考える算数』を正文に渡して教室を出て行った。
その後、長谷川さんの『考える算数』を写して先生に見せたのだろうが、その部分の記憶は綺麗さっぱり消えていた。しかし、次の日「昨日はありがとう」と長谷川さんに『考える算数』を返したことは憶えている。
そこから長谷川さんと何かがあったわけではなく、当時の正文には他に好きな子がいた。背の高い女の子で、学年で一番背が高かった。運動会や集会の時に列の中からぴょこんと彼女の頭が飛び出していた。中学の時も何となく気になっていたが、なぜか顔と名前は思い出せなかった。
長谷川さんは顔も名前もしっかり思い出せるのに、彼女の記憶は『考える算数』を貸してくれたところだけだ。小学校は同じだったし、中学もたぶん同じだっただろう。でもその後、彼女がどうしていたのかは記憶にない。でも時々そうやって思い出すことがある。
2‐1 どうしよっか?
正文は路地を歩いていた。道路は車一台通るのがやっとで、両脇には昭和から建っているような古い家屋が隙間なく建ち並んでいる。どの家も玄関に薄明るい赤色の提灯がかかっているが路地は薄暗い。
家の玄関はどこも開いていて、明かりは点いているがなぜかここも薄暗い。奥の方に女が座っていて、顔を確かめようと立ち止まると、うちわを持った婆さんが近づいてくる。正文はたまたま通りかかった風を装って婆さんから逃げた。
ここに用があって来たのではないか。正文は自分に言い聞かせた。ここは女を買える場所だった。
正文は路地の端にある提灯がかかった家を覗いた。ジーンズと同じ生地のミニスカートを履いた女が座っていて、白い太ももが半分以上見えていた。髪は茶色に染めている。うちわを持った婆さんが近づいてきた。
「ここ、どれくらいですか?」
正文から声をかけたので婆さんは少し驚いていた。正文はもう一度同じことを訊いた。ミニスカートの女は正文の声が聞こえているはずだが、指一本動かさずにじっとしていた。
「お兄さん、どれくらい持ってるの?」と婆さんは言った。
「十万」
「まあ、十万も!」
婆さんが声を高くする。それから「うちはそんなに高くないよ」とすぐに歯を見せて笑った。
何度もネットで調べて、一万円あれば充分だと知っていたが、実は二十万円持ってきていた。これだけあればヤクザにぼったくられても払えるだろうという用心だった。
「いくら?」
正文が訊くと、婆さんが計るような目を向けてきた。
「一番良い子ならぴったり五万だよ」と婆さんは言った。
「あの子?」
正文が家の奥にいる女を指差すと、女の髪が少しだけ揺れた。しかし婆さんは首を横に振った。
「もっといい子がいるよ。性格は良いし、今日はまだ客を取っていない。お兄さんも初めてだろう?」
心を読まれたようでドキッとした。しばらくしてから今日はまだ女を抱いていないという意味で言ったのだと気付いた。婆さんはそれを見透かしたようにニタリと笑った。
「本当にいい子だよ。他の子はみんなすれっからしだからね。それと比べれば生まれたての赤ん坊みたいに可愛らしい子なんだから」
「五万ですか?」
「その子なら。あの子なら一万五千」
足元を見られているような気はする。世間知らずの坊やが来たから少し儲けてやろうという魂胆なのだろう。しかし、正文はこの婆さんに話しかけただけで一日分の気力を使い果たしてしまった。他の場所に行く気にはならない。
「五万で」と正文は言った。
金を出す時、婆さんは正文の手元を見ていた。財布の中には十万円以上あることも見られたはずだが、何も言わなかった。
婆さんは五万円を両手で数えると、綺麗にたたんで服の隙間に押し込んだ。
「ルルちゃ~ん、ルルちゃ~ん、お客さぁ~ん。一番奥の部屋ぁ~」
婆さんが玄関脇にある階段に向かって、うちわをパンパンと叩きながら声をかけた。二階から静かに障子を開く音がする。
「上に上がると女の子がいるから。いっぱい楽しんできて」
婆さんが正文の背中をうちわで撫でた。
階段に明かりはあるがなぜか薄暗い。どうしてこうも薄暗いところばかりなんだろう、正文はやけに傾斜のきつい階段を登りながら考えていた。
天井が低いので二階へはすぐに着いた。二階も一階と同じように天井が低い。手を上げればひじを曲げたまま天井に触れられそうだ。黄色っぽい蛍光灯がいくつか点いているが、やはり薄暗く、ものの輪郭や色があいまいだった。
正文はなぜか泣きたくなった。エアコンの風が冷たいせいかもしれない。どこから風が吹いているのだろうと振り返ると、階段の脇に女が座っていたので正文は驚いた。婆さんがいつの間に階段の下にいたのにも驚いた。
「ルルちゃん、お客さん」
婆さんが声をかけるとルルちゃんと呼ばれた女が顔を上げた。派手ではなく、地味でもなく、振り返るような美人でもなければ驚くようなブスでもない。つまり普通の顔をしている。着ているのは薄くて白い生地のキャミソールで、肩にかかっている布地は糸みたいに細いし、下に履いている黒い下着かホットパンツか分からないものはほとんど丈がなく、白い太ももがむき出しだった。
「お兄さん初めてみたいだから優しくしてやってね。いっぱい」
「はい」
声も普通だった。これといった特徴がない。
「こちらへどうぞ」
女に導かれて正文は一番奥の部屋に入った。建物は奥に細長い間取りをしていて、部屋も同じように細長かった。床は畳で、部屋の出入り口は引き戸だ。鍵は付いていない。その気になればいつでも外から開けられる。正文は不安になった。
「これからどうしようか?」
正文はそう言った。しかしここへ来てやることは一つしかない。
「それじゃあまず服でも脱ぎましょうか」と女が言った。
「うん」
女は一息で服を脱いで下着姿になった。正文はそれを見て不安になった。女が微笑む。
「あたしが脱がしてあげる」
女が正文の服を脱がしにかかった。ボタンを外されるのが少しくすぐったかった。
女の頭は正文の喉の辺りにある。髪の毛から石鹸の匂いがした。
「うわっ、すごい体。何かやってる人?」
正文の服を脱がすと、女が小さな声を上げた。
「高校までバスケやってた」
「あぁ~やっぱり。いい体してる。モテるでしょ?」
「いや、全然」
バスケをやっていたのは本当だし、モテなかったのも本当だ。それにもう十年近く運動らしい運動をしていない。気休め程度に体は鍛えているが、体の芯がたるみ始めている。それでもいい体をしていると言われると、嬉しくなった。
「さ、それじゃあ布団に横になって」
正文が布団に横たわると、女もすぐに体を横たえた。腕に胸が当たっている。足にも、女の太ももの柔らかさと暖かさを感じる。どこもふわふわとしていて押せばつぶれてしまいそうだったが、正文は指一本動かせなかった。
「ねえさんがさっき言ってたけど、お兄さん、初めて?」
歳は同じくらいだった。それでも女は正文をお兄さんと呼ぶ。ねえさんとは婆さんのことだろう。
「うん」
「こういうところじゃなくて、こういうことも初めて?」
正文は答えられなかった。
「どうしよっか?」
「分からない」
「さわってみる?」
女は正文の手を持って自分の胸を触らせた。想像していたよりも手応えがなくて、ぎゅっと揉みこむと女が「痛いっ」と声を出した。
「ごめん」
正文はすぐに手を離した。しかし女の体はどこまでいっても何かを掴めるような気がしなかった。それなのに、痛い、と女が声を出したので意外だった、何かにだまされているような気分がする。
「優しくしてほしい」
「どうしたら良いのか分からない」
「初めてだもんね」
女は正文の手に自分の手を重ねると、自分の胸を揉んだり撫でたりした。正文は指先でその感覚を味わった。とにかくすべてが柔らかく暖かかった。
女は眉をひそめて息が荒くなった。やめた方がいいかもしれないと不安になったが、女は手の動きを止めない。それどころか正文の太ももを股で締め付けてきた。柔らかくて暖かい。今まで想像もしなかった感触に体の片側が麻痺したようになった。
「こっちも触ってみる?」
女が少し体を離して、正文の手を股間に導いた。濡れた下着の感触を指先に感じた。
「指入れるよ?」
女は下着をずらして正文の指を中に入れた。本当に女の体がそこにあるのか不安になるぐらい柔らかかった。自分の手がどこにあるのか分からなくなる。それでも女は何かに耐えるような声を出した。そこだけは不思議と存在感がある。
正文はしばらく目をつぶって女の声を聞いていた。指先はただ柔らかく湿った場所を撫でているとしか感じられなかった。
束の間、女の体が離れたので目を開くと女が下着を脱いでいた。蛍光灯の影になっていて輪郭だけしか見えない。目と口だけは白く光っていたので影になっていても見分けられる。女は笑っていた。
「脱がしていい?」
女が正文の下着に両手をかけた。正文がうなずくと、女はすぐに脱がしにかかった。お尻で引っかかったので腰を微かに浮かせると、あっという間に足首まで脱がされて、股間に涼しい風を感じた。
「すごい」
女が正文のものを冷たい指で包むように握った。思わず声が出るほどくすぐったかった。
「心配しなくても大丈夫」
女が正文のものをくわえこんで舌でなめ始めた。噛みつかれたらどうしようかと不安になったが、すぐにどうでも良くなった。やはりここも柔らかくて暖かい。女の体は水か空気でできているのではないか。
「大きくなった」
女の口が離れると、正文のものが指で何度かしごかれた。
「それじゃあ入れるからね」
女が股を開いて正文の上にまたがった瞬間、甘い匂いが鼻に飛び込んできた。
女が体を沈めると正文のものが暖かさに包まれた。だが、それだけだった。本当に中に入っているのかと疑ったが、頭を浮かせると二人の股間が重なっていた。どうやら根元までしっかり中に入っているらしい。なんだ、こんなものか、と正文はがっかりした。
「気持ちいい? ぜんぶ入ってるよ」
女の声に正文はうなずいた。女はうなずき返すと、静かに腰を前後に振り始め、笑っているのか悲鳴を上げているのかよく分からない声を出すようになった。
正文の目の前で胸が上下に揺れている。「触っていいよ」と女が言ったので下から支えるように胸に触れた。やはり柔らかくて手応えがない。
女は声を出し続けている。喉が渇かないのだろうかと正文は冷静な気持ちで女を見上げていた。声は止むどころかどんどん大きくなっている。なぜか寂しい気持ちになった。
手を上げているのも疲れた。手を下げると女のあばらに触れた。骨の感触があって固かった。正文は初めて女に触れられた気がした。
「くすぐったい」
女が腰を振りながら笑っている。一生終わらないのではないかと正文は考え始めていた。あばらから下に手を下ろすと今度は脇腹で、どこまでも手応えがない柔らかさだった。そこからさらに手を下へ降ろすと骨盤に触れた。女が確かにそこにいるのだと再び感じることができた。
「くすぐったいってば」
女が笑いながら正文の手を弱々しい力で離そうとする。その間も腰は振られ続けていて、湿っぽい擦れる音が続いている。
「ここ持っていると落ち着く、変かな?」
「くすぐったいよ」
女は正文の手を持ったままだが、もう離そうとはしなかった。
正文はなぜか口に笑みがこぼれた。その瞬間、俺はいま女を抱いている、セックスしている、もう童貞じゃないんだ、と気づくと何の前触れもなく射精してしまった。女が抜けるような声を出した。
自分でもどこから出しているのだろうと思うぐらい射精が続いて、その次に考えたのは女が妊娠したらどうしようかということだった。コンドームを着けずに射精してしまった。しかも射精はまだ止まらないし、女は股間を押し付けてくるし、正文も正文で女の骨盤を両手で掴んで引き寄せていた。そんな自分が動物的で浅ましいと思った。
ひとしきり射精すると、女は何度か息を吐いて体を持ち上げた。それから正文の横に倒れる。
正文は顔を上げて自分の股間を見ると、いつの間にかコンドームが着いていて、先端に正文が出したものが溜まっていた。いつ着けられたのかは分からない。女が口で荒い息を吐きながらティッシュでコンドームを取って、正文のものを拭き始める。
「どうだった?」と女が訊いてくる。
「うん」と正文はあいまいに答えた。自分でもどうだったのかよく分からない。
「時間はまだあるし、もう一回する?」
「今はいい」
「出したばっかりだもんね」
女が布団から立ち上がった。股の間にティッシュが挟まっている。女は冷蔵庫から細長い缶ジュースを出して正文に渡した。地元企業で作られたような野暮ったいデザインで、手が痛くなるほど冷えていた。飲んでみると柑橘系の甘酸っぱい味がする。缶にはスダチのイラストがあった。
「お兄さん、すごくうまかった。本当に初めて? またしてみたいな、あたし」
女があからさまな営業トークを口にした。
「そうかな」と正文は答えた。うまいと言われても正文は布団で横たわっていただけだ。
甘酸っぱいジュースを一気に飲み干すと、体が芯から冷えた。寒さをしのぐようにそばにあった服を引き寄せると「もう帰るの?」と女が言った。
「寒いから」
「ここ冷房キツイよね」
正文が上半身だけ服を着ると、女もキャミソールだけを上に着た。
「それだけだと寒くない?」
「寒い」
女が正文にもたれかかってきた。どうしたらいいか分からなくて視線を上に逸らすと、昭和からそこにあるような角張ったデザインのエアコンが目に入った。外で室外機がやかましく回る音も耳に入ってきた。
二回目をする気は起きない。実はもう帰ろうかと正文は考えていた。ただ、時間が来る前に帰っていいのか判断がつかなかっただけだ。そういえばこの部屋に入る前に一時間なのか半時間なのかは聞いていない。緊張していたので記憶にないだけかもしれない。さっきの女の口ぶりからすると、時間はまだたっぷりありそうだった。
女の体勢が崩れて、後ろにこけそうになった。正文がとっさに肩を抱いて支えると、女が「あれっ」と驚いた声を出した。何かまずいことをしたのかもしれない。
女がまじまじと正文の顔を見てくる。何を言われるのか怖くて、正文もじっと女の顔を見返していると、女の目がぱっと大きく見開かれた。
「もしかして森くんじゃない? 森正文君」
森は正文の苗字だ。どうして知っているのだろうとまた不安になった。万が一にもここへ来たことがバレないように免許証や携帯電話は部屋に置いてきたのだ。
「ほら、あたし、長谷川。長谷川美夏(はせがわみか)。小、中、高と一緒だった」
「えっ、長谷川さん?」
じっと女の顔を見ていると、記憶の中の長谷川さんと鼻の形だけは同じだった。
「ああ! 長谷川さん!」
「そう! 長谷川さん!」
正文に思い浮かんだのは小学校の頃に『考える算数』を貸してくれた長谷川さんで、中、高と一緒だった記憶はない。髪形は大人っぽくなっているし、目や口は化粧をしている。そうと言われなければ知らずに帰っていただろう。
「こんなところで会うなんて不思議だね~。高校卒業してからどうしてたの?」
それから身の上話というよりは質問攻めにあって、正文がどこの大学に行って、どこで働いているのかまで話してしまった。
正文も長谷川さんが今までどうしていたのか、ほんの少しだけ教えてもらった。彼女は高校を卒業した後、大阪の大学へ行って、一度名古屋で就職した後、東京で転職して、そこで二年働いた後、徳島に戻ってきたらしい。
戸の向こうから婆さんの声がして、終了時間が来たことを知らせた。
「延長はできるんだけど?」と長谷川さんが言った。
「夜も遅いし帰ろうかな。明日も仕事あるし」
「そっか。今日は森君に会えてよかった。もし良かったら、また来て」
「うん」
「森君の連絡先教えて」
もう二度と来るつもりはなかったが、断るのも相手に悪いので連絡先の交換をした。
二階には表と裏に階段が二つあって、正文が最初に登ったのは手前の階段だ。
長谷川さんに手を引かれながら奥側の階段を降りると、何度も建て増しを繰り返した継ぎはぎだらけの廊下に出て、そこを通り抜けると裏口から路地裏に出た。靴は玄関で脱いでいたが、いつの間にか裏口に揃えて置かれていた。
「向こうへ行くと通りに出るから」
長谷川さんが腕を伸ばして、遠くに見える明かりを指差した。
「それじゃあ、またね」
長谷川さんが胸の前で両手を小さく振る。
正文は「じゃ」と短く手を上げて、路地裏を歩き始めた。家々がせまっているので表の路地より暗い。道も人一人が歩くのがやっとだ。裏口の微かな光があるので足元は見えた。
路地裏を歩いていると、窓の中から女のあえぎ声が聞こえた。足を止めて耳を傾けようかと考えたが、考えただけで通り過ぎた。
正文は路地裏を出ると振り返った。長谷川さんがまだ手を振っているような気がしたが、もう誰もいなかった。
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