牛野小雪を知る場所

聖者の行進 上

聖者の行進 上をAmazonで見る
聖者の行進 上をAmazonで見る

1 運び屋タナカ 終章 痛みと恐怖を感じる前に

 タナカ・サトシはライトバンで短距離配送をしている。仕事に関する指示は多く、裁量権はないと言ってもいいのに彼は雇われドライバーではなく社長だった。従業員として雇われたはずだったのになぜかそうなっていた。

 運送会社から荷物を預かって配送先に送る。配達が遅れるのはもちろん事故を起こしても、荷物を破損しても損失はすべて彼が負わなければならない。だから損をしても何とかなる範囲で荷物を運んだ。

 収入はほとんど上がらなかったが、社長という肩書きだけあって稼ぎはそこそこあった。テレビのニュースで聞くような貧困層ではない。むしろ稼ぎは多い方だ。

 しかしなぜか金は貯まらなかった。通帳の残高は去年と比べると、ほとんど増えていない。それどころか月によっては大きく減る時もあったので数ヶ月に一度賭けのようにして大量の荷物を運んだ。今のところ賭けには勝っている。

 会社は色んな名目で金を抜き取っていく。納得がいかないので一度だけ会社に相談したことがある。するとスーツを着た頭の良さそうな男が家に来て、理由を説明した。何を話したのかは忘れてしまったが、彼の言葉に心の深いところで納得したことは憶えている。俺はなんてつまらないことで悩んでいたのだと恥ずかしくなり、わざわざ家にまで来てもらって申し訳ないと頭を下げたぐらいだ。

 だから一週間後にまた会社のやり方に疑問を持ってもタナカは何も言えなかった。というより言うべき言葉が思いつかないのだ。会社に対する強い不信感は疑いようもなく存在しているのに、何かがおかしいという言葉しか浮かんでこない。

 彼は現状を受け入れるしかなかった。会社からは金を抜かれ続けている。ひとつひとつの額はそれほどでもないが、一年を通せばかなりの額だった。

 タナカはバックミラーで自分の顔を見た。五年前は子どもっぽくふくらんだほっぺたが嫌いだった。今はその子どもっぽさが消えて中年の顔になろうとしている。それも嫌いだった。このまま若さが蒸発していくだけなのか。仕事を変えるべきかもしれない。気持ちが落ち込むと、そんなことばかり考えてしまう。

 仕事にやりがいを感じることがないといえば嘘になる。今の仕事を始めて最初の頃はかなり緊張していたが、それと同じぐらい充実していた。今は緊張感だけがある。それでも、ふとした瞬間に最初の充実感がよみがえる時もある。それはいつも考える暇もないほど忙しい時だった。

 余計なことを考えすぎているのかもしれない。だから苦しむのだ。何が不安なのか。考えても分からないのは学歴がないからだろうか。そういう問題ではない気がする。何かがおかしい。絶対にそうだ。でも何が?

 彼はライトバンを古びたマンションの駐車場に停めた。かなり古い建物で元々白かったであろう壁にはほこりと水垢で灰色の縞模様が描かれている。建物の両端と真ん中にある階段には遠目からでもはっきりと分かる亀裂が入っていた。

 その階段を子ども達が高い声を上げて走り回っていた。人の気配は子ども達の声だけで、不気味なほど静まりかえっている。ベランダに洗濯物はほとんどない。入居者はほとんどいないのだろう。いくら家賃が安くてもこんな場所には住みたくない。

 タナカはライトバンから荷物を降ろした。カニ缶七十二缶。四〇三号室。受取人はタナカ・イチロウ。同じ苗字なので気に止めていた。それにカニ缶七十二缶はけっこうな重さで、力に自信があるタナカでも気持ちを締め直さなければならない。しかも時間指定の荷物だったので今日の山場のひとつだった。

 タナカは荷台を閉めるとマンションに入った。

 ここのエレベーターは登りの時にきしむ音がするのでなるべく使いたくなかったが、今日は重い荷物を持っているので乗ることにした。しかし、いくら待ってもエレベーターは来なかった。ずっと力んでいるせいか指先が汗ばんでくる。一度荷物を膝に置いて体勢を立て直した。

 子ども達が叫びながら階段を駈け降りてきた。

「それ壊れてるよ」

 子どもの一人がそう言ってタナカの後ろを走り抜けた。思わず舌打ちが出る。子どもが驚いて振り返った。タナカは慌てて笑みを浮かべたが、その笑顔を見る前に子どもは走り去っていた。また舌打ちが出る。今度は誰も聞いていなかった。

 タナカはカニ缶七十二缶を抱えながら階段を登った。クソッ。これでもし不在だったら絶対に許せないぞ。

 不在通知、再配達、この二つにタナカは良い思い出がなかった。敷地に車がなかったのに、その時間は家にいたと言い張る客。再配達すると、手間を取らせやがってと怒鳴る客。クソッ。思い出しただけでも腹が立つ。あんな家には二度と届けたくないとタナカは思っていて、今のところその願いは叶っている。

 もしかするとこの世に神はいるのかもしれない。どうせ願いを叶えてくれるならもっと大きな願いを叶えて欲しいものだ。タナカは階段を踏みしめながら、何かがおかしいこの状況が良くなり、気持ち良く仕事ができますようにと祈る。だがその願いが叶わないだろうことは二十八年の人生経験が知っている。

 タナカは四〇三号室に着くとドアの脇にあるチャイムのボタンを押した。音は鳴らない。ここでは珍しくないことだ。タナカはカニ缶を膝の上に置いてドアを叩いた。

「タナカさん。いらっしゃいますか。宅配便です」

 ドアの向こうで足音がした。予想外に若い音だった。

 足音が玄関まで来るとドアが開いた。鍵はかけていなかったらしい。

「こんにちは。こちらはタナカさんのお宅でしょうか?」

 ドアの向こうから出てきたのはやはり若い男だった。といってもタナカと同じぐらいだ。このマンションではあまり見ないタイプの顔をしていた。

 ここに住んでいるのは死なないから生きている老人と、生きる気力を失った中年の男女しか住んでいない。子ども達だけが例外的に明るかったが、十代半ばになると荒んだ顔つきになるか、姿を見なくなるかのどちらかだった。

 目の前にいる男はこれから新しい生活が始まるぞ、とでも言いたげなまぶしい顔をしていた。もしかすると遠い土地から引っ越してきたのかもしれない。じきにまたどこかへ引っ越すだろう。ここはまともな人間が住む場所ではない。

「ごくろうさまです」と男は言った。

「こちらに印鑑かサインをいただけますか」

「はい」

 男は受取証に『たなか』とひらがなでサインした。

「ひらがなを使うのは日本人だけだから偽造されにくいそうですよ。中国人は十億人もいるでしょう? 漢字は偽造されやすいし、アルファベットも同じ理由で駄目だそうです」

 タナカの視線に気付いた男がひらがなでサインした理由を説明した。タナカは返事に困り「はあ、そうですか」と答えた。

 サインを貰ったので荷物を渡そうとしたが男は受け取ろうとしなかった。

「すみません。これ重そうなので部屋の中まで運んでいただけませんか」

 男が申し訳なさそうに頼んできた。

「かまいませんよ」

 そう言ってタナカが靴を脱いで玄関に上がると、男はなぜか玄関のドアを閉めた。おまけに鍵まで閉めている。用心深い性格のようだ。配達伝票にひらがなでサインするぐらいだからそんなものだろうとタナカは思った。

 それがタナカの間違いであったが、間違いに気付いたところで彼にはどうしようもなかった。相手が変な人間だからといって荷物を放り出すわけにはいかない。運送会社から受け取った荷物はどんな家でも配達しなければならない。タナカは一目でヤクザだと分かる家に配達したこともあるし、野太い鎖に繋がれた大型犬が玄関の前につながれている家にも配達したことがある。小型犬に足を噛まれたことは何度もあった。

 部屋に入ると、どこかで拾ってきたような擦り傷だらけの机と椅子、黄ばんで綿がはみだした布団が敷いてあるだけだった。キッチンに冷蔵庫はないし、コンロには鍋もヤカンもない。

「一人暮らしだと料理するのが面倒ですから。かといって毎日外食するのも大変ですし」

 男が恥ずかしそうに説明した。それから机の上に手を向ける。タナカはレンジがないことにも気付いた。

(だから缶詰か。しかしカニ缶なら弁当を買った方が安上がりじゃないか?)

 心の中で余計なお世話を焼きながらタナカはカニ缶七十二缶を机に置いた。その瞬間、股に生暖かく濡れた感触が広がった。

(小便を漏らした)

 タナカは恥ずかしくなった。力を抜いた瞬間漏らすなんて。しかも小便はまだ漏れ続けていて、力を入れれば入れるほど漏れていく。

「どうかされましたか?」

 男の問いかけにタナカは「いえ、なんでもありません」とすぐに答えた。

 どうしたものか。濡れた股を見られたくない。小便は太ももの内側にまで垂れてきた。このままだと床まで濡らしてしまう。早くこの部屋を出なければならない。そうだ。さりげなく股を手で隠して、振り返らずに部屋を出ればいい。

「それでは、ありがとうございました」

 タナカは素早く行動を起こした。カニ缶から手を離し、背中を向ける。股は自然に隠すことができた。後は振り返らずに部屋を出るだけだ。

 タナカは一歩踏み出した。しかし膝から力が抜けて、その場にしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫ですか?」

 男が肩を叩いた。ああ、クソッ。漏らしたのがバレてしまう。もう隠しきれない。年齢的にいえばまだ若者に片足をかけているというのに俺の体はどうしてしまったんだ。タナカは恥ずかしさで背中に汗をかくほど熱くなった。

 しかし、タナカがとうとう隠しきれなくなった自分の股に目を向けると、熱くなった血が一気に冷めた。濡れて濃い染みになっているはずのズボンは赤黒く染まっていた。

(血尿だ。どうしてこんなことになっているんだ。俺、死ぬんじゃないか?)

 タナカの考えは半分当たって、半分外れていた。彼は血尿を漏らしたのではなく、へその下から血を流していた。背中に汗をかいていると感じているのも間違いで、彼は背中からも血を流していた。

 彼はなぜ血を流しているのか。人体から勝手に血が流れることはない。彼はへその下をナイフで刺されていた。しかもその刃は異常なほど鋭く研ぎあがっており、刺突も鮮やか過ぎるほど手早く行われたので、彼の神経は体を切り裂かれた痛みではなく、ナイフが人体を通り抜けた時に生じた摩擦熱と、衣服が血で濡れていく感覚しか認識できなかった。

「大丈夫ですか?」

 男はタナカに声をかけながら背中をナイフで刺していく。タナカは自分の身に起こっていることが理解できず、返事をする余裕もなかった。男に背中を叩かれると妙に熱いとだけ感じていた。

 タナカは股に広がる血に触れようとしたがおそろしくてできなかった。すると背中からも血がにじんでいることに気付いた。

(本当どうなってるんだ?)

 大きな疑問と驚きがタナカを包んだ。さっきから男が声をかけていることは分かっていたが血を失いすぎていたので、タナカは返事もできないまま床に倒れた。

 身体の表面は生暖かく湿っていくのに体の中が冷たく乾いていく。今まで感じたことのない感覚がタナカを襲った。目をつぶりたくないのに目の前が真っ暗になっていく。

(このままだと眠ってしまうぞ。せめて車に戻らないと・・・・・・)

 タナカ・サトシは最後までナイフで刺された痛みも、死の恐怖も感じることなく、驚きと疑問に包まれたまま死んでいった。

続きはこちらから
聖者の行進 上をAmazonで見る
聖者の行進 上をAmazonで見る

『聖者の行進』を書いてみよう 牛野小雪のページに戻る