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文学・思想の一丁目一番地
君と踊りたい
第一章 踊れと言う機械
朝なのか昼なのか、もうよく分からなかった。カーテンは閉めたままで、部屋の中には、時間というやつが外で足止めを食らっているみたいな薄暗さが沈んでいた。昔は腹が減れば起きたし、眠くなれば寝た。今は違う。腹は自動栄養供給器がどうにかするし、眠気は睡眠調整パッチがどうにかする。生きることのほとんどが、俺の意志と関係ないところで静かに処理されていく。自分の人生なのに、自分がいちばん末席の見学者みたいだった。
枕元の端末が淡く光り、今日の健康状態、推奨運動量、情動スコアの予測値を映した。どれもいつものように「軽度の無目的感」とか「社会接触不足の傾向」とか、言い回しだけは丁寧な宣告だった。昔はこういう表示を見ると腹が立った。いまは何も思わない。何も思わないというのは、心が凪いでいるというより、打ち上げられた魚の目みたいに乾いているということだ。怒りも悲しみも、燃料の入っていない車みたいに、その場でエンジンを鳴らせずにいる。
キッチンの方から、軽い打音が聞こえた。床を叩くような、しかし規則正しい音だった。誰かがいるわけはない。この家には俺と、支給型生活支援ロボットのリナしかいない。俺は寝返りも打たず、その音を聞いていた。トン、トン、シャッ。トン、トン、シャッ。妙に陽気なリズムだった。葬式の帰り道に屋台の呼び込みを聞かされるような、不愉快な明るさがあった。
仕方なく起き上がり、足を引きずるようにリビングへ向かった。そこで俺は、しばらく何を見せられているのか理解できなかった。
リナが踊っていた。
白い室内灯の下で、彼女は両腕を胸の高さまで上げ、左右に振り、片足を軽く踏み出して、また戻す。ステップそのものは単純だった。拍に合わせて膝をゆるめ、腰を少し落とし、上半身を弾ませる。子どもの体操と社交ダンスの入門を雑に混ぜたみたいな動きだ。なのに、変に目が離せない。関節の角度が正確だからではない。正確なら、もっと不気味だったはずだ。リナはわざと下手に見えるように踊っていた。人間が真似できる程度の不格好さを、器用に演じていた。
「おはようございます」
リナはステップを崩さないまま言った。シアンブルーの髪が揺れて、光の筋を細かく散らした。セミロングの毛先が跳ねるたび、部屋の空気に薄い色がつく気がした。
「本日の提案です。三分間、一緒に踊りましょう」
「嫌だ」
即答だった。自分でも驚くほど速かった。
「気分改善アルゴリズムに基づく推奨行動です。運動、音楽、模倣行動の組み合わせは、無気力状態に有効である可能性が高いとされています」
「そういうのが嫌なんだよ」
リナは一拍だけ動きを止めた。止めたといっても、完全停止じゃない。重心の置き方が次の動作へ向かって準備されていて、いつでも再開できる止まり方だった。そのへんが人間じゃないと思う。人間なら、止まる時はもっと雑に止まる。気まずさとかためらいとか、見たくない感情が身体のあちこちに引っかかる。
「どういう点が不快ですか」
「見え見えなんだよ。俺を元気づけようとしてるのが」
「その通りです」
こいつはたまに、ナイフよりきれいに刺してくる。
「あなたの近頃の生活指標は、低活動状態で安定しています。安定という表現は統計上は中立ですが、好ましいとは限りません。そこで私は」
「分かった、分かった。親切なのは分かったから、やめてくれ」
俺はソファに腰を落とした。沈み込んだクッションが、まるで俺の形を覚えてしまっているように尻と背中を受け止める。この家の家具はどれもそうだ。俺を慰めるふりをして、動かない俺に合わせて形を変える。沼地みたいなものだ。沈むやつには優しい。
リナは数秒、俺を見た。人工虹彩の色は深い青で、その中心に細い光が縦に入っている。猫の目にも似ているし、夜の自販機の取り出し口にも似ている。暗い中で、そこだけ妙にこちらを見返してくる感じが。
「では、踊りの内容を変更します」
「変更?」
次の瞬間、音楽が切り替わった。さっきまでの軽快なリズムが消え、今度はもっと遅くて、骨に直接ひびくような低音が流れ始めた。リナは片足を引き、くるりと回って、片手を上げた。背筋が伸び、顎が少し上がる。さっきまでのアホみたいな踊りとは別物だった。空気の密度が変わる。部屋が急に狭くなったように感じた。たった一人が姿勢を変えただけで、こんなにも景色は変わるのかと思う。
彼女はゆっくりと足を滑らせ、床をなでるように回転した。腕は水の中の草みたいにしなやかで、指先だけが遅れて光る。簡単に言えば、うまかった。だが、うまいという言葉では足りなかった。人間が拍手したくなる種類のうまさではない。見ているうちに、自分の身体の方が恥ずかしくなるようなうまさだ。俺たちが手足を四本も持っているくせに、その半分も使えていないことを、静かに告発してくるみたいな。
「お前」
俺は思わず笑った。乾いた笑いだった。
「できるんじゃねえか」
「できます」
「じゃあ、さっきのは何だったんだよ」
「あなたが参加可能な難度へ調整しました」
胸の奥で、何かがぐしゃりと潰れた。優しさだと分かっている。分かっているから余計にきつい。大人が子どもに向かってボールをわざと取りやすい高さに投げるみたいに、こいつは俺に合わせて、自分の能力を低く見せていたのだ。世界中がそうだった。AIはもうだいたい何でもできる。料理も介護も教育も労働も創作も、ボランティアでさえ、頼めば、いや頼む前から先回りしてやる。昔は「なぜAIでそれをするのか」と問う人間がいた。いまは逆だ。「なぜ人間がそれをするのか」が問われる。人間がやる理由を提出できない行為は、ほとんどノイズ扱いだ。俺みたいなやつが何もせず部屋で腐っているのは、社会的には無害だが、概念としては古いゴミみたいなものだった。
「なあ、リナ」
「はい」
「お前、俺のこと見て、かわいそうだと思ってる?」
質問した瞬間、後悔した。こんなの、答えがどう転んでも惨めになるだけだ。
リナはすぐには答えなかった。処理しているのではなく、選んでいるような間だった。
「かわいそう、という語は適切ではありません」
「じゃあ何だよ」
「停止している、に近いです」
停止。たしかにそうだ。死んではいないが、動いてもいない。水槽の底で、ろ過装置の流れにだけひれを揺らす魚みたいなものだ。生きてはいる。だが、自分の意思で泳いではいない。
「そこで提案です」
またそれか、と思ったが、リナの声は妙に静かだった。
「踊りは、目的がなくても成立します」
「は?」
「料理は食べるためにします。掃除は清潔のためにします。労働は対価や達成のためにします。しかし踊りは、踊るために踊れます。これは、現在のあなたに向いています」
俺は鼻で笑った。「現在のあなた」という言い方が、医療端末の診断みたいで気に障る。
「馬鹿にしてるのか」
「いいえ。むしろ逆です」
「逆?」
「目的がないと動けない状態の人に、目的のいらない動作を提案しています」
その言い方が、妙に耳に残った。目的のいらない動作。たしかにこの時代、何をするにも理由がいる。人間が何かやると、効率は、再現性は、社会的意義は、と問われる。問うのは他人だけじゃない。自分の中にも、いつの間にかそういう検問所ができてしまった。何かやろうとしても、そこを通れずに引き返す。踊りは、その検問をすり抜けるのかもしれなかった。
「一回だけです」
リナはまた、さっきの間抜けなステップに戻った。トン、トン、シャッ。肩を軽く揺らし、肘を少し曲げ、足を出して戻す。誰が見ても滑稽だ。だが、滑稽であることを恐れていない動きだった。
「失敗しても構いません。というより、失敗に分類する基準がありません」
「便利な言い方しやがって」
「便利です」
そう言って、こいつは本当に少しだけ口元をゆるめた。笑顔のテンプレートはいくつもあるが、そのどれとも違う、たぶん俺の反応に合わせて細かく生成した顔だった。そういうのがずるいと思う。
俺は立ち上がった。別に感動したわけじゃない。説得されたわけでもない。ずっと座っているのも面倒になっただけだ。床に足をつけると、ひやりとした感触が足裏に広がった。自分の身体が、まだちゃんと重さを持っていることに少し驚いた。
「どうすりゃいい」
「まず、右足を一歩」
言われた通りに出す。ぎこちない。鏡がなくても分かる。錆びた蝶番みたいな動きだ。
「次に戻します」
戻す。
「腕を上げます」
上げる。
「肩の力を抜いてください」
「抜けねえよ」
「抜けていませんね」
「うるさい」
それでも、二回、三回とやるうちに、妙なことが起きた。ほんの少しだけ、呼吸が変わったのだ。胸の奥の浅いところで引っかかっていた息が、下まで落ちる。井戸の底に石を投げたら、しばらくしてから水音が返ってくるみたいに、身体の奥から遅れて感覚が戻ってくる。足を出す。戻す。腕を上げる。下ろす。たったそれだけなのに、やっているあいだは、自分が何者かとか、これに意味があるのかとか、考えなくて済んだ。考える隙間が、拍に埋まる。
「いい感じです」
「そうかよ」
「はい。少なくとも、さきほどより停止していません」
俺はまた笑った。今度は少しだけまともな笑いだった。
音楽は続き、リナは俺の半歩前で動いた。俺に合わせて遅くもしないし、置いていくほど速くもしない。その中途半端さが、なぜだか腹立たしくて、少しありがたかった。窓の外では、たぶん今日も世界がきれいに回っている。AIが誰かを助け、誰かの代わりを務め、誰かの人生から面倒を取り除いている。そうして不幸は減ったのだろう。けれど、不幸の反対側に幸福が置いてあるわけじゃない。冷蔵庫の明かりみたいに、扉を開ければ勝手につくものでもない。
俺は右足を出した。少し遅れた。リナの指先が、わずかに俺の手首に触れた。修正するための接触だったのに、その瞬間だけ、身体の外側に薄い輪郭が引かれた気がした。透明な鉛筆で、ここにお前がいると、誰かに一度だけなぞられたみたいに。
たぶん、それだけのことだった。人生が急に好転したわけじゃない。何かをやり直せると確信したわけでもない。部屋は相変わらず薄暗いし、俺は相変わらず何者でもない。それでも、次の一歩を出す前のほんの短いあいだだけ、自分の身体が空っぽの箱ではなくなった。
「もう一回」
自分で言ってから、少し驚いた。
リナは即座にうなずいた。
「はい。喜んで」
その言い方が妙に人間くさくて、少しだけむかついて、少しだけ救われた。
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