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文学・思想の一丁目一番地

君と見た十分の一秒

第一章 NEET

 会場の入口で立ち止まったのは、足がすくんだからじゃない。まだ入らなくていい理由を、頭が勝手に探していただけだ。

 ガラスの自動ドアが開くたび、人が中へ吸われていく。俺もその流れに混じればいいだけだった。受付があって、名前を書いて、席に座って、試合をする。それだけだ。オンラインなら何千試合もやってきた。相手が誰でも関係ない。画面を見て、動きを見て、切って、入れて、終わりだ。やることは変わらない。

 なのに、俺はまだ外にいた。

 スマホの端で、アレックスが小さく口を開く。

「帰る?」

 俺は答えない。

「だよね。せっかく来たんだし。君、逃げるとあとで三倍めんどくさいし」

 画面を消そうかと思ったが、やめた。ポケットに入れても、どうせこいつは喋る。電源を切るほどの決意もない。俺はフードを少し引いて、会場の中へ入った。

 受付には列ができていた。前のやつがタブレットに名前を打ち込んで、スタッフに何か言われて、笑っていた。笑えるのがすごい。大会ってのはみんなこんなふうに、顔を出して来るものなのかと思う。俺は配信で見ていた。動画でも見ていた。でも実物は違う。人間がいる。いるのが分かる。多すぎる。

 列が進む。

 俺の番が来る。

「エントリー名をお願いします」

 スタッフは若かった。俺より若いかもしれない。男か女か一瞬分からなかった。分からなくていいことが、会うと増える。

 俺はタブレットを受け取る。名前の欄が白く光っていた。そこに何を書くかは決めていた。OREとは書かない。あれはネットの中の名前だ。あの名前でここに立ったら、何かが決まってしまう気がした。

 俺は、NEETと打った。

 スタッフは見た。特に笑わなかった。

「こちらでよろしいですか」

「はい」

 自分の声が思ったより普通で、少しだけ腹が立った。

 その時、アレックスが画面の端であくびみたいな動きをした。スタッフの目がスマホに向く。

「それ、何ですか」

「AIアバターです」

「対戦補助とかですか」

「喋るだけです」

「喋るだけ?」

 アレックスが言う。

「傷つくなあ。だいぶ役に立ってるんだけど」

 スタッフの顔が止まった。俺のほうを見る。スマホを見る。もう一度俺のほうを見る。それから、少々お待ちくださいと言って奥へ引っ込んだ。

 面倒だなと思う。帰る理由にはちょうどいいかとも思った。でも、そこで帰ったら、帰るためにここまで来たことになる。俺は立ったまま待つ。

 スタッフが二人増えて戻ってきた。さらに奥からもう一人来た。たぶん少し偉いやつだ。

「大会では外部支援の使用は禁止です」

「支援じゃないです」

「操作や情報提供は」

「操作はしません」

「情報提供はするよ」

 俺は画面を押さえた。

「黙ってろよ」

「うわ、ひど」

 偉そうなやつが眉を動かした。

「その子、音声認識してるんですか」

「してます」

「通信は」

「切ってます。ローカルです」

「カメラは」

「あります」

「会場の撮影は困るんですが」

「対戦の時だけ前を向きます。記録もしません」

 半分くらいは嘘じゃない。全部は言ってない。だが、全部説明する義理もない。

 偉そうなやつは少し考えてから、こちらへと言った。俺はスタッフの後ろについていく。会場の脇の、小さな仕切りのあるブースだった。モニターとコントローラーがある。テスト用らしい。

「少しプレイしていただけますか」

 俺は席に座る。手が冷たい。指は動く。動くが、背中が落ち着かない。誰かが後ろにいるだけで、首の裏がむずむずする。画面にCPUが出る。ドラゴンを選ぶ。開幕。前に出る。小パンチ。つながらない。裂空。出ない。もう一度。遅い。投げられる。起き上がりで技が漏れる。終わる。

 アレックスが小さく言う。

「へた」

 俺は何も言わない。

 次も負けた。今度は一ラウンドも取れなかった。ブースの空気が、ああやっぱりみたいに静かになったのが分かった。

「確認できました。ご参加いただいて大丈夫です」

 偉そうなやつが言う。

 確認したのは何だよと思ったが、口には出さなかった。どうせ、AIを連れていても問題ないほど弱い、そう見えたんだろう。ちょうどいい。俺は立ち上がる。

「席番号はこちらです」

 紙を渡される。

 予選会場は大きかった。モニターが列になって並んでいる。背中合わせの台がいくつもあって、その間を人が歩いている。音があちこちから鳴っているのに、一つ一つが中途半端で耳に残る。俺は席を見つけて座った。対面の席はまだ空いていた。

「ここで大丈夫?」

 アレックスが言う。

「帰ってもいいけど。今ならまだ、ただの変な人で済む」

「うるさい」

「知ってる」

 俺はコントローラーを触る。備え付けのやつだ。家のとは少し感触が違う。十字の入りが浅い。でも動く。押せば返る。ボタンの高さも問題ない。やれる。やれるはずだ。

 対面に男が来た。スーツだった。会社帰りみたいな顔をしていた。鞄を足元に置く。俺を見る。少し笑う。まずい。と思う前に、そいつはこっちへ回ってきた。

「よろしくお願いします」

 手が出される。

 俺は一拍遅れて立った。握る。手の温度が分かる。それだけで十分すぎた。

「よろしく」

 言えた。それだけだった。

 席に戻る。試合が始まる。

 一戦目。俺は何もできなかった。

 相手は強くない。画面を見れば分かる。飛びが雑で、連携も浅い。投げ抜けも遅い。ネットならSRの下くらいだ。勝てる相手だった。なのに、俺は負けた。技が出る前に指が迷う。見る場所が定まらない。相手のキャラより、モニターの縁とか、照明の映り込みとか、横の席の音とか、どうでもいいものが目に入る。ラウンドを落とす。次も落とす。しかもパーフェクト負けだった。

 アレックスが言う。

「最強さん」

 俺は視線を動かさない。

「聞こえてる?」

「聞こえてる」

「じゃあいい。まだ死んでない」

 二戦目が始まる。

 相手の動きが少し変わった。近づいて、離れて、届かない位置でパンチを振る。飛ばない。無理に攻めない。待っているわけでもない。変な動きだった。俺は一度、相手を投げた。起き上がり。何もしない。ガードもしない。少し歩いて、それからまた離れる。

 俺は視線を画面から外す。

 モニターの向こうで、男が笑っていた。

 口だけだった。派手じゃない。見下している顔でもない。ああこいつ、せっかく来たんだから一回くらい勝たせてやるか、そういう笑みだった。弱い相手に向ける、角の丸い笑み。俺にも分かるくらい、分かりやすかった。

 その瞬間、何かがずれた。

 頭の中で音が増えた。隣の台のレバー。遠くの拍手。実況のマイク。誰かの笑い声。靴が床を擦る音。全部が近い。全部が入ってくる。会場の空気は、薄いガラスを噛み砕いて飲みこむみたいにざらついていた。

「ユースケ」

 アレックスが言う。

「見なくていいとこまで見てる」

 俺はコントローラーから手を離した。

 立ち上がる。

「え」

 相手が顔を上げる。

 俺はスマホをつかんだ。そのまま背を向ける。後ろで何か言われた気がしたが、聞かなかった。聞いても意味は同じだ。

「ちょ、待って。今のはもったいな」

「うるせえ」

「うるさいのは会場ね」

 通路を抜ける。人と肩が触れそうになるたび体が固くなる。受付の横を通る。スタッフがこちらを見た。止められなかった。止めるほどのことでもないんだろう。途中棄権なんて、今日は何人もいるのかもしれない。俺が特別じゃないのは、こういう時だけ都合がいい。

 外に出る。自動ドアが閉まる。

 少し静かになった。

 でも、まだ耳の奥で残っている。

「帰る?」

 アレックスがまた言う。

 俺は歩く。駅のほうへ向かう人波とは逆に、建物の裏のほうへ曲がる。人の少ない道を選ぶ。自販機があった。買う気もないのに、その前で止まる。

「ねえ」

 アレックスが言う。

「君さ、ほんとに強いんだよ」

「知ってる」

「じゃあ何で逃げたの」

 俺はスマホの電源ボタンに指をかける。

「言っとくけど、今の相手、全然強く」

 画面が暗くなる。

 やっと黙った。

 自販機の黒い表示板に、フードをかぶった俺が映っていた。名前を書けば怪異で、会場に行けばNEETで、勝たせてもらえば弱者だ。どれも俺なのに、どれも俺じゃない気がした。

 ポケットの中のスマホは、もう何も言わない。

 それでも俺は、さっきの笑みだけは消せなかった。

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