文学・思想の一丁目一番地
17歳
第一章 戦争反対!
駅前のロータリーには、昼を過ぎても人が残っていた。選挙カーの白い車体が日を返し、のぼりが風で鳴っていた。平和党の青い旗は軽く見えるのに、大日本改革党の赤い旗はやけに重そうに見えた。色のせいだろうかと俺は思った。
令子さんは俺の少し前に立っていた。でかい。ほんとにでかい。頭ひとつどころじゃない。長い黒髪が背中を流れて、白いシャツの上から胸の線がはっきり分かった。近づくと、いつもの匂いがした。甘いとか花みたいとか、そういう上品な言い方は違う。もっとまっすぐで、息を吸うと胸の奥まで入ってきて、いると分かる匂いだった。きもいなと自分でも思う。でも分かるものは分かる。
「一郎君、プラカードちゃんと持って」
「持ってます」
「逆」
「え」
言われて見たら、本当に逆だった。戦争反対が裏返っていて、印刷会社の名前が表に出ていた。令子さんが笑った。俺は持ち直した。横で見ていた田中さんが鼻で笑ったが、聞こえないふりをした。
今日ここに来るのは、大山大五郎の街頭演説があるからだった。俺たちはその向かい側に立って、平和党の支持者として抗議の声を上げる。大山大五郎。昭和の押し入れからそのまま出てきたみたいな名前だと、俺は最初に聞いた時から思っている。名前だけで古い。考え方もきっと古い。軍備を増やして、憲法も変えて、外国人を追い出して、女を黙らせて、強い日本とかいうやつをまた始めようとしている。そういう連中の顔は、だいたい似ている。
選挙カーが入ってくる前から、向こう側には人が集まっていた。年寄りが多い。背広の男もいる。腕を組んで、うなずく準備をしているみたいな顔だった。俺はああいう顔が嫌いだ。何かをもう分かったことにしている顔。まだ何も始まっていないのに、もう勝った気でいる顔。
「緊張してる?」
「してないです」
「してる顔してる」
「してないです」
令子さんはこっちを見た。少しかがんで、俺の前髪をつまむようにして撫でた。指先がひんやりしていた。頭の上だけ急に静かになった。駅前のざわつきも、車の音も、遠くに行った感じがした。
「彼女いるの?」
「いないです」
「ホントに?」
いませんよ、と俺は言った。ホントは、って心の中で言った。ホントは令子さんが好きだからです。言えるわけがない。言ったら終わる。何が終わるのかは知らないが、とにかく終わる気がした。
大山の選挙カーがロータリーに入ってきた。白い手袋をしたスタッフが先に降りてきて、道を開けるみたいに腕を振った。それから本人が出てきた。でかい男だった。太っているわけじゃない。肩が広くて、首が短い。顔は四角く、笑っていないのにもう勝った顔をしていた。マイクを持つ前から、空気が少し向こうへ傾いた。
「来たね」
「はい」
「負けないでいこう」
「はい」
俺はプラカードを持つ手に力を入れた。紙の端が指に食い込んだ。大山は台に上がって、マイクの高さを合わせてもらっていた。動きが静かだった。静かなのに、なんか腹が立つ。殴る前に勝つタイプの体つきだった。
大山が話し始める。最初は聞こえにくかった。マイクの調子が悪いのか、もともとそういう声なのか分からない。だが少しして、言葉が届くようになった。地域の安全、家族の暮らし、責任ある政治、世界が不安定な時代。そんなことを言っていた。きれいに並んでいた。つるつるしていた。石じゃなくて缶詰みたいな言葉だと俺は思った。中身は見えないのに、開ける前からうまそうに見せてくる。
「戦争反対!」
最初に声を上げたのは令子さんだった。高くなかった。よく通った。俺はすぐ続いた。
「戦争反対!」
向こうの何人かがこっちを見た。大山は止まらない。マイクを握ったまま、少しだけ目を上げた。俺たちはもう一度やった。
「戦争反対!」
「軍拡反対!」
田中さんも叫んだ。周りの仲間も声を重ねた。俺は喉が熱くなってきた。叫んでいるのは大山に向かってなのに、俺は令子さんに聞かせたかった。俺はここにいる。ちゃんといる。そう言っている感じだった。自分でも変だと思ったが、叫ぶほど体は軽くなった。
向こうから誰かがうるさいぞと言った。戦争するほうがうるせえよと田中さんが返した。駅前の空気がぴりっとした。大山はまだ話していた。抑止力とか、現実とか、国を守る責任とか、そういう単語が断片で聞こえた。守る。あいつらはすぐ守ると言う。でも守られる側に、俺たちが入っている感じはしない。守ると言いながら、いつも勝手に決める。
「一郎君、もっと前」
俺は一歩前へ出た。のぼりの影が頬をかすめた。風が変わって、令子さんの匂いがまた来た。頭が少し熱くなった。大山の顔は遠いのに、令子さんの横顔は近かった。鼻筋が通っていて、口はきつく結ばれていた。怒っている顔なのに、見ていたくなる。火を見ている時みたいだと思った。近づくと危ないのに、目が離れない。
「戦争反対!」
今度は俺が先に叫んだ。思ったより大きい声が出た。喉の奥が震えた。向こうの支持者の中に笑っているやつがいた。若いやつが騒いでると思ったんだろう。そういう笑い方だった。俺はそいつの顔を覚えた。あとでSNSにでも上げるのかもしれない。いい歳してよく笑えるなと思った。
大山がそこで初めて、こっちを見た。たぶん見た。俺にはそう見えた。四角い顔の真ん中にある目が、まっすぐこっちへ向いた気がした。何か言うのかと思ったが、大山は何も言わなかった。そのまま話を続けた。俺たちがいないみたいに。そこがいちばん腹が立った。うるさい連中として怒るのでもなく、若いやつらとして諭すのでもなく、最初から風景に入れてしまうみたいな無視だった。
俺はプラカードを持つ手を上げた。腕が少しだるい。汗が指ににじんでいた。駅前のアスファルトは日をためていて、足の裏からじわじわ熱が上がってきた。喉はひりつくのに、胸の中は冷えていた。変な感じだった。
「一郎君、いい声出てる」
令子さんが言った。
「ありがとうございます」
「ちがう。褒めてない」
「え」
令子さんは笑っていた。俺も少し笑った。何がちがうのかは分からなかった。でも、その分からなさごと好きだった。
演説は続いた。向こうの拍手が何度か起きた。俺たちはそのたびに声を上げた。戦争反対。改憲反対。差別反対。女をなめるな。言葉は短いほうが強かった。長いことを言い出すと、こっちの熱が散る。短い言葉を何度も投げると、自分の体がだんだん言葉の形になっていく感じがあった。
大山の顔を見ているうちに、こいつは古いだけじゃないなと思った。古いものが古いまま立っている時の嫌さじゃない。まだ新しい顔をして、人の前で古いことを言える手つきの嫌さだった。たぶんああいうのが一番まずい。昔の軍人の格好をしていたら、誰だって逃げる。でも背広を着て、地域とか暮らしとか穏やかなことを言いながら、人を戦争へ近づけるなら、そっちのほうがずっと悪い。
演説が終わるころ、向こうで大きな拍手が起きた。こっちの声はその音に飲まれた。少し遅れて、令子さんがもう一度だけ叫んだ。
「戦争反対!」
俺も叫んだ。田中さんも叫んだ。拍手の壁に石を投げるみたいだった。意味があるのかは知らない。でも投げないよりはよかった。
大山が台を降りる。スタッフが囲む。支持者が前へ出る。握手をしたいのか、顔を見たいのか、とにかく人が寄る。その時、大山がまたこっちを見た気がした。さっきより短く、でもはっきりと。俺は見返した。逃げなかった。令子さんの隣に立ったまま、まっすぐ見た。
すると令子さんが、俺の髪をまたつまんだ。
「顔こわいよ、一郎君」
「そうですか」
「うん。でも、いい」
駅前の風が動いた。選挙カーの残り香、アスファルトの熱、遠くの焼きそばの油のにおい、その中で令子さんの匂いだけが変にはっきりしていた。俺はプラカードを下ろした。腕が重かった。けど、体のどこかは軽かった。
大山大五郎。あいつはたしかにここにいた。思ったよりでかく、思ったより静かで、思ったより腹が立つ男だった。俺はあいつの声をまだちゃんと覚えていない。でも顔は覚えた。あの無視する目も覚えた。
次は負けないと思った。何に負けないのか、自分でもまだよく分からなかった。けれど、たぶんもう始まっていた。少なくとも俺の中では。
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