文学・思想の一丁目一番地
みんなが幸せなら、俺はどうなってもいい
第一章 台所の椅子
朝の台所には、まだ誰の言葉も落ちていなかった。冷蔵庫の小さな唸りと、炊飯器の蒸気だけが、家の中で先に起きている。俺は米を研ぎ、味噌汁の鍋に火をかけ、ヨーコのマグカップを湯で温めた。彼女は熱いコーヒーが好きなのではない。ぬるくなるのが嫌いなのだ。だから先にカップを温めておく。それだけで、最初の一口が少しだけ長持ちする。
俺は専業主夫だった。そう言うと、たいていの人間は一瞬だけ目の置き場をなくす。すごいですね、理解のある奥さんですね、料理とか得意なんですか。だいたいそんな言葉が出る。悪気はないのだろう。ただ、その言葉の裏側には、男が家にいることへの薄い驚きが、紙の油染みみたいに残っている。
俺自身も、最初から平気だったわけではない。会社を辞めた直後は、平日の昼間にスーパーへ行くだけで、どこかで見張られているような気がした。ネギと豆腐をかごに入れながら、自分はいま何者なのだろうと考えた。レジに並ぶおばあさんや、抱っこ紐をつけた若い母親の中に混じると、俺だけが別の場所から紛れ込んだ失敗品のように思えた。
けれど、家事はやればやるほど、思ったよりも具体的だった。洗濯物は天気で乾き方が違う。玉ねぎは切り方で甘みの出方が変わる。床の埃は、掃除機をかけた翌日にも平気な顔で戻ってくる。家というものは、放っておけばすぐに崩れる。誰かが毎日、崩れかけたところを手で押さえているから、何も起きていないように見えるだけなのだ。
ヨーコはプログラマーだった。家を出る時間は一定ではない。リモートの日もあれば、会社に行く日もある。夜中までコードを書いている日もある。俺には彼女の仕事の細かいところは分からない。けれど、分からないなりに、画面に向かう背中の硬さくらいは分かる。うまくいっている日は肩が少し下がる。詰まっている日は、椅子の上で片足を折り、眉間に縦の線が入る。
少し前まで、ヨーコはAIの話になると、急に口数が減った。便利だよね、と言いながら、声の底に冷たいものが混じった。自分の仕事は、いつか全部置き換えられるのではないか。コードを書く人間はいらなくなるのではないか。そんなことを、彼女は何度か言った。自信のある人間が、自分の足元だけ見失う瞬間は、見ていて苦しい。
ある夜、ヨーコはリビングのテーブルにノートパソコンを開き、AIに書かせたコードを眺めていた。俺はキッチンで皿を拭いていた。彼女はしばらく無言だったが、やがて小さく笑った。
「これ、動くけど、分かってないんだ」
俺は手を止めた。
「何が?」
「目的。何のためにこうするかを、分かってない。だから、変なところで近道する。近道に見えて、後から全部壊れる道を選ぶ」
そのときのヨーコの顔を、俺は今でも覚えている。怖がっている人の顔ではなかった。むしろ、自分の仕事場に戻ってきた人の顔だった。AIは敵ではない。道具でもあるが、それだけではない。人間が何を作りたいのか、どこで壊れてはいけないのか、それを決める人間が必要なのだと、彼女は自分の中で何かを掴み直していた。
それからヨーコは、少しずつ元気になった。AIがあるからプログラマーはいらないのではなく、AIがあるからこそ、プログラマーの判断がいる。そう言うようになった。俺には半分も分からなかったが、彼女が自分の仕事を再び信じられるようになったことだけは分かった。人間は、自分の価値を外から認められるだけでは足りない。自分で、自分の手の感覚を取り戻さなければならない。
俺はそのころ、朝食の卵焼きを少し甘くするようになった。ヨーコが疲れている日は、甘いものを食べたときだけ、顔の力が抜けるからだ。これも、たぶん仕事だった。給料は出ない。評価面談もない。けれど、相手の顔色を見て、必要なものを一つだけ先回りする。それは、家を支える仕事だった。
テーブルの上には、今日の朝食が並んでいた。ご飯、味噌汁、鮭、卵焼き、小松菜のおひたし。平凡な献立だった。平凡というのは、意外と手間がかかる。冷蔵庫の残りを見て、昨日の夕飯と味がかぶらないようにして、明日の買い物まで考えておく。何も考えていないように見える食卓ほど、実は小さな判断でできている。
ヨーコが寝室から出てきた。髪はまだ少し乱れていたが、目だけはもう仕事を始めている人間の目だった。彼女は椅子に座り、マグカップに手を伸ばした。
「温かい」
「カップ、温めといた」
「こういうの、地味に助かる」
地味に、という言葉が好きだった。俺の生活はたぶん、ほとんどが地味でできている。派手なことは何もない。誰かに褒められることもない。けれど、地味なものが積み重なって、ヨーコの一日が少しだけましになるなら、それでよかった。
ヨーコは味噌汁を一口飲み、ふうと息を吐いた。それから、テーブルの端に置いてあった封筒に目をやった。病院の名前が印刷された白い封筒だった。そこだけ、朝の食卓から浮いていた。鮭の皮の焦げ目や、湯気の立つ味噌汁や、甘い卵焼きの中に、その封筒だけが冷たく置かれていた。
俺とヨーコは、不妊治療をしていた。最初は、そんなに深刻に考えていなかった。ちょっとがんばろっか。そんな言い方だった。まるで新しい家具を買う相談みたいに、未来の部屋の中へ、子どもという存在を置いてみただけだった。
けれど、できなかった。月が過ぎ、季節が変わり、年賀状に写る友人の子どもが少しずつ大きくなっていくのを見ても、俺たちの家には誰も増えなかった。最初は笑って流せた言葉が、少しずつ喉に引っかかるようになった。そのうち、妊娠という言葉そのものが、家の中で取り扱い注意のガラス製品みたいになった。
治療センターへ行く日は、二人とも少しだけ丁寧になる。俺は朝食を焦がさないようにする。ヨーコはいつもより落ち着いた服を選ぶ。お互いに、相手を不安にさせないように振る舞う。けれど、不安にさせないようにしている時点で、もう不安なのだ。
ヨーコは封筒を手に取り、中に入っていた予約票を見た。
「来週の水曜、午後だね」
「うん。俺も一緒に行く」
「仕事じゃないんだから、そんなマジメな顔しないで」
「した?」
「した」
ヨーコは少し笑った。俺も笑った。こういう小さなやり取りで、俺たちは何とか普通の夫婦の形を保っていた。普通というのは、自然にあるものではない。少なくとも俺たちにとっては、毎日少しずつ作り直すものだった。
ヨーコは強い女だった。いや、強くあろうとする女だった。そこを間違えてはいけない。強い人間は、何も感じない人間ではない。感じているのに、次の予定を確認する人間だ。泣きたいのに、冷蔵庫の中身を見て、帰りに牛乳を買わなきゃと言える人間だ。ヨーコの強さは、鉄みたいな硬さではなく、何度曲がっても折れない針金のようなものだった。
俺はその強さが好きだった。けれど、時々怖くもあった。強い人間は、弱音を吐く場所を失いやすい。周りが勝手に、この人なら大丈夫だと思ってしまう。俺もそうだったのかもしれない。ヨーコなら大丈夫。ヨーコなら次を考えられる。ヨーコなら失敗を処理できる。そう思うたびに、俺は彼女の痛みを見逃していたのかもしれない。
朝食のあと、ヨーコは洗面所へ行き、俺は皿を流しに運んだ。蛇口から出る水が、白い皿の上で跳ねた。油の膜が薄く広がり、洗剤の泡で消えていく。俺はその様子を見ながら、家事というものは、なかったことにする作業に似ていると思った。汚れを落とす。匂いを消す。散らかったものを元の場所に戻す。昨日の痕跡を片づけて、今日を始められるようにする。
けれど、消えないものもある。体の中で起きないこと。検査結果に出る数字。医師の言葉。期待してはいけないと思いながら、それでも期待してしまう心。そういうものは、洗剤では落ちない。流しの水のように、排水口へ消えてくれない。
ヨーコが出勤の支度を終えて戻ってきた。黒いジャケットを着て、髪を結んでいた。さっきまで味噌汁を飲んでいた人とは、少し違って見えた。外へ出るための顔だった。
「今日、遅くなるかも」
「じゃあ、味噌汁は具を少なめにしておく」
「なんで?」
「遅い日は、噛むのも面倒そうだから」
ヨーコは一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
「そういうところ、ほんとによく見てるよね」
「家にいるからね」
「家にいるだけじゃ、見えないよ」
その言葉は、俺の胸に静かに入ってきた。俺は何も言えなかった。専業主夫であることを、自分で納得しているつもりでも、どこかでまだ、家にいるだけだと思っていたのかもしれない。けれどヨーコは、俺が見ていることを見てくれていた。そのことが、少しだけ救いだった。
ヨーコが玄関へ向かう。俺はその背中を見送った。靴を履き、鞄を持ち、ドアノブに手をかける。彼女は振り返り、いつものように言った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まると、家の中は急に広くなった。俺はしばらく玄関に立っていた。さっきまでヨーコがいた場所に、彼女の体温だけが薄く残っている気がした。
リビングに戻ると、病院の予約票がテーブルに置かれたままだった。俺はそれを持ち上げ、冷蔵庫の扉に貼ることにした。予定を忘れないためだった。けれど、本当は違うのかもしれない。俺たちはまだ諦めていないのだと、家のどこかに証拠を残したかったのかもしれない。
マグネットで予約票を留める。白い紙は、冷蔵庫の銀色の扉に貼りついた。俺は少し離れて見た。まっすぐ貼ったつもりだった。けれど、わずかに右へ傾いていた。
直そうと思えば直せた。指で端を持ち上げ、ほんの少し角度を変えればいいだけだった。けれど俺は、そのままにした。なぜだか分からない。ただ、その小さな傾きが、俺たちの家にふさわしいような気がした。
朝の光が、冷蔵庫の扉に反射していた。予約票の文字は、妙にはっきり見えた。来週の水曜日。午後二時三十分。俺はその日付を見つめながら、台所の椅子に座った。
誰もいない家で、俺はしばらく動けなかった。家は整っていた。食器も洗った。洗濯機も回っている。味噌汁の鍋も片づけた。何も問題はないように見えた。
それでも、俺たちの未来だけが、どこか少し斜めに貼られていた。
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