文学・思想の一丁目一番地
辺境伯インターネット安心安全卿直轄インターネット武士団
第一章 いい体してるね
俺は元警察官だ。こう言うと、たいていの人間は勝手に想像する。拳銃を構え、犯人を追い、夜の街を走り、悪いやつを壁に押しつけるような仕事だ。もちろん、そういう場面がまったくないとは言わない。だが、実際の警察官の仕事は、思っているよりずっと紙に近い。人間より紙を相手にしている時間のほうが長い日さえある。
事件が起きれば書類を書く。何かを聞けば記録を取る。現場へ行けば報告書を作る。上に説明するための書類、あとで責任を問われないための書類、誰かが読んだかどうかも分からない書類。犯罪と戦うために警察官になったつもりだったのに、気づけば俺は、犯罪そのものではなく、犯罪のまわりに発生する紙くずの山と戦っていた。
もちろん、書類が無意味だと言いたいわけじゃない。むしろ、書類は必要だ。人を捕まえるというのは、腕力で相手を押さえることではない。社会の決まりに従って、証拠を積み上げ、手続きを踏み、誰が見ても納得できる形にすることだ。だから書類は、正義の骨組みでもある。だが、骨組みばかり見ていると、生きた体がどこにあるのか分からなくなる。
俺は、その骨組みに飽きていた。いや、飽きていたという言い方は軽いかもしれない。むしろ、腐りかけていた。心の奥に、もっと直接的なものを求める気持ちがあった。誰かが困っている。悪いやつがいる。そこへ駆けつける。止める。守る。そういう子供みたいに単純な正義を、俺はまだどこかで信じていた。
そんなある日のことだ。俺は勤務中だった。交番の前で、いつも通りに周囲を見ていた。自転車の高校生、買い物袋を下げた老人、スマホを見ながら歩く会社員、やたら急いでいる配達員。世の中は、何も起きていないように見えるときほど、細かい違和感で満ちている。警察官はその違和感を拾う仕事でもある。
その男は、そういう意味では最初から違和感だった。年齢は五十代くらい。服装は普通なのに、妙に普通すぎる。高級でもなく、貧相でもなく、目立たないために選び抜いたような服。髪は整っていて、靴も汚れていない。だが、歩き方だけがおかしかった。目的地へ向かっているというより、誰かを品定めしながら移動しているように見えた。
男は俺の前で足を止めた。そして、にこりと笑った。人のよさそうな笑顔だった。だが、人のよさそうな笑顔というのは、時々、人の悪さを隠すために使われる。俺は自然に背筋を伸ばした。職務質問するほどではない。だが、見逃すには少し引っかかる。そういう種類の男だった。
「いい体してるね」
一言目がそれだった。
俺は一瞬、聞き間違えたのかと思った。勤務中の警察官に向かって、いきなり言う言葉ではない。いや、勤務中でなくても言うべきではない。道端で初対面の男に「いい体してるね」と言われて、心が温まる人間は少数派だろう。少なくとも俺は、その少数派ではなかった。
男は俺の返事を待たず、さらに一歩近づいてきた。俺は反射的に距離を取ろうとしたが、その前に男の手が伸びた。肩に触れられた。次に腕を軽くつかまれた。さらに胸板のあたりを、確認するように押された。触り方にいやらしさがないのが、逆に不気味だった。欲望というより、検品に近かった。
俺は一瞬、同性愛系の案件だと思って身構えた。念のため言っておくが、同性愛に偏見はない。誰が誰を好きになろうと、俺が口を出すことではない。だが、それと俺が自分の貞操の危機を危ぶまないのとは別問題だ。人は思想として寛容でいられても、自分の肉体に不意に手を伸ばされると、かなり原始的な警戒心を取り戻す。
男は俺の肩を見て、腕を見て、腰のあたりまで視線を落とし、何かを納得するようにうなずいた。そのうなずきが、また気持ち悪かった。服のサイズを測られているのではない。筋肉量を見られているのでもない。もっと別のものを見られている気がした。言葉にするなら、使い道だ。俺という人間の使い道を、勝手に判断されている気がした。
警察官としての俺は、そこで相手を制止すべきだった。実際、口も出かけた。「何をしているんですか」と言いかけた。だが、男の雰囲気には妙な隙のなさがあった。酔っぱらいではない。変質者とも少し違う。宗教の勧誘や詐欺師にある、まとわりつくような熱もない。まるで、予定された確認作業を淡々と終えた職員みたいだった。
その冷静さが、俺の判断を一拍遅らせた。犯罪者というのは、分かりやすく怪しいとは限らない。むしろ、本当に怪しいやつほど、怪しさをよく整えてくる。だから俺は、男を単なる変なおっさんとして処理できなかった。見た目は怪しい。行動も怪しい。だが、怪しさの質が、俺の知っている街の怪しさではなかった。
男は最後に、俺の二の腕を軽く叩いた。ぽん、という乾いた音がした。ペットショップで犬の骨格を確認するようでもあり、中古車屋でエンジンルームを見ているようでもあった。俺は犬でも車でもない。だが、男の目には、俺が何かの用途を持った物体として映っているようだった。
「うん。いけるね」
何がだ。
俺はそう言いそうになった。だが、その前に男は懐から紙を出した。パンフレットだった。白地に妙に品のある文字が並んでいる。安っぽいチラシではない。かといって、公的機関の案内でもない。結婚相談所と防衛装備品メーカーと自己啓発セミナーを混ぜ、なぜか和風にしたような紙だった。
「いい仕事があるよ」
男はそう言った。
この時点で、普通なら帰れと言うべきだった。勤務中の警察官に、いい仕事があるよ、はない。そもそもその言い方は、路地裏で怪しいバイトを紹介する人間の言い方だ。運び屋、名義貸し、闇の警備、そういうものの入口に置かれていそうな言葉だった。
だが、俺はパンフレットを受け取ってしまった。理由は今でもよく分からない。警察官として相手の正体を確認したかったのかもしれない。あるいは、仕事に飽きていた俺の心が、その言葉に反応してしまったのかもしれない。いい仕事。いい体。いけるね。どれも危ない言葉だ。だが、人間は危ない言葉ほど、疲れているときに聞き逃せなくなる。
パンフレットの表紙には、こう書かれていた。辺境伯インターネット安心安全卿直轄インターネット武士団。俺は三回読んだ。一回目は読み間違いだと思った。二回目は冗談だと思った。三回目で、これは本当にそう書いてあるのだと認めるしかなくなった。
長い。あまりにも長い。しかも、単語同士の接続がおかしい。辺境伯。インターネット。安心安全卿。直轄。武士団。どれか一つなら、まだ分かる。二つでも、変わった組織名として飲み込めるかもしれない。だが、全部を並べると、役所がふざけたのか、異世界転生ものの作者が締切前に錯乱したのか、判断がつかない。
俺は男を見た。男は真顔だった。冗談を言っている顔ではない。むしろ、こちらが笑ったら失礼になるような、妙に厳粛な空気をまとっていた。変な名前ほど、本人たちが本気だと笑いにくい。たとえば、町内会の謎の防犯スローガンでも、掲げている老人たちが本気なら、若者は笑う前に少し黙る。それと似た圧があった。
俺はパンフレットを開いた。中には、職務内容らしきものが書かれていた。インターネットの平和と秩序を守る。国境の警備。侵入者の排除。機密保持。忠誠。心身の鍛錬。どれも抽象的で、具体的なようで具体的ではなかった。だが、ひとつだけ、やけに具体的な項目があった。
月給、手取り七十二万円。
俺はそこだけ二度見した。手取りで七十二万円。賞与あり。宿舎完備。福利厚生、最先端の医療が無制限、無尽蔵に無料。年金、武士団特別共済。装備、無償貸与、損傷保険付き。環境、全てから解放された自由。世界を守るやりがいのある仕事。最後には、資産形成したい人に最適、とまで書かれていた。
この世で「全てから解放された自由」と「資産形成したい人に最適」が同じ紙に並んでいる場合、だいたい何かがおかしい。自由を売り文句にする組織ほど、自由を細かく管理していることがある。たとえば、好きな時間に働けます、と言いながら、実際には二十四時間連絡が来る仕事のようなものだ。言葉としての自由と、体感としての自由は違う。
だが、そのときの俺は、そこまで深く考えなかった。手取り七十二万円という数字は、思考を鈍らせるには十分だった。人間は正義で動くと思われがちだが、数字でも動く。しかも、疲れている人間ほど、数字の輪郭がくっきり見える。俺は犯罪と戦いたかった。だが、同時に、将来の金の心配もしたくなかった。
男は俺の反応を見て、またうなずいた。今度は、体ではなく心のどこかを測られた気がした。金に反応するか。戦いに反応するか。名前の異常さに引くか。それとも、引きながらも興味を持つか。そういうものを、俺はすでに試されていたのかもしれない。
「電話番号、そこにあるから」
男はそう言って、パンフレットの下のほうを指差した。住所はなかった。会社名らしいものもない。代表者名もない。あるのは電話番号だけだった。普通なら、それだけで怪しい。まともな組織は所在地を隠さない。少なくとも、求人の紙に住所を書かない組織は信用しにくい。
それでも俺は、その紙を捨てなかった。勤務が終わってからも、カバンの中に入れたまま持ち帰った。家に帰り、机の上に置き、風呂に入り、飯を食い、もう一度見た。辺境伯インターネット安心安全卿直轄インターネット武士団。やはり長い。やはり変だ。やはり危ない。
だが、武士団という言葉だけが、妙に俺の中に残った。警察ではない。警備会社でもない。自衛隊でもない。武士団。そこには、書類ではなく、戦いの匂いがあった。もちろん、現代日本で武士団を名乗る時点でまともではない。まともではないのに、俺の疲れた心は、そのまともでなさに少しだけ救われていた。
今思えば、あの瞬間が境目だった。俺はまだ警察官だった。まだ住所のある世界にいた。まだ地図で帰れる場所にいた。だが、パンフレットを捨てなかった時点で、俺はもう片足を、別の国境に突っ込んでいたのかもしれない。
その国境がどこにあるのか、そのときの俺は知らなかった。インターネットが本当に国境を持つことも、安心安全という言葉が、時に命令より強い鎖になることも、手取り七十二万円の給料が、自由の値段ではなく、帰れなさの前払いであることも、まだ何も知らなかった。
ただ、あのおっさんの手の感触だけは、妙に残っていた。肩に触れられた感触。腕をつかまれた感触。胸板を押された感触。人間としてではなく、何かに向いた体として測られた感触。
俺はその夜、パンフレットの電話番号を見ながら、なかなか眠れなかった。犯罪と戦いたいという気持ちは、まだ俺の中にあった。だが、その気持ちが本当に正義なのか、それとも退屈から逃げたいだけなのか、もう自分でも分からなかった。外ではいつもの街が眠っていた。信号が点滅し、車が走り、どこかで犬が吠えていた。
そのすべてが、まだ普通だった。だからこそ、俺は電話番号を見つめ続けた。普通の世界に飽きた人間ほど、異常な入口を、危険ではなく救いのように見てしまうことがある。俺の場合、その入口には、あまりにも長い名前がついていた。辺境伯インターネット安心安全卿直轄インターネット武士団。冗談みたいな名前だった。
だが、冗談みたいなものほど、本気だったときに逃げ道がない。
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