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サメを押す仕事

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第一章 手で握れそうな世界

 俺の目の前に世界がある。そう言うと、ずいぶん大げさに聞こえるかもしれない。だが、実際にそこにあるものは、大げさな言葉でしか扱えないほど小さい。ライトの白い円の中に、黒い海底がある。その海底に、一本のケーブルが横たわっている。太さだけで言えば、両手で握れば持ち上げられそうな線だ。だが、その線の中を、世界が走っている。

 世界というものは、もっと派手な姿をしていると思われがちだ。高層ビル、証券取引所、データセンター、人工衛星、巨大なサーバールーム、青白く光る画面の列。そういうものを並べると、いかにも現代らしい。だが、俺が毎日見ている世界は、もっと地味だ。冷たい海底に寝そべっている。沈黙している。泥に少し埋もれ、フジツボみたいなものをくっつけ、何も知らない顔をしている。

 それでも、そいつが切れたら終わる。AIだとか、仮想通貨だとか、世界中の会議だとか、誰かの告白だとか、誰かの悪口だとか、そういうものはこのケーブルの中を通っている。見えない速度で、見えない形で、ここを通っていく。たとえば、どこかの高校生が深夜に送った短いメッセージも、投資家が一瞬で売った暗号資産も、遠い国の病院へ送られる画像も、たぶんこの細い線の親戚みたいなものの中を走っている。そう考えると、世界は思ったよりも線に近い。

 線は頼りない。だが、線ほど強いものもない。人間は線を引くと安心する。国境線、道路の白線、ノートの罫線、スマホの充電ケーブル、家族との連絡先。線は、こちらとあちらを分けるものでもあり、こちらとあちらをつなぐものでもある。海底ケーブルは、その両方をやっている。国と国をつなぎながら、同時に、つながっていない場所を暗闇のまま残している。俺はその暗闇の側から、つながっている世界を見ている。

 俺の仕事は、その線を守ることだ。もう少し正確に言うと、俺はサメを押す仕事をしている。初めてそう説明した相手は、たいてい笑う。冗談だと思うらしい。あるいは、新手の比喩だと思う。会社員が嫌な上司をサメと呼んでいるとか、ネットの炎上をサメと呼んでいるとか、そういうたとえ話だと受け取る。だが、違う。本当にサメを押す。深海に潜り、ケーブルのそばを見回り、サメが来たら、押して遠ざける。

 深海にすむサメは、どういうわけかケーブルをかじりに来る。理由はよくわからない。電気の匂いがするのかもしれないし、振動に反応しているのかもしれない。あるいは、ただそこにあるからかじっているだけかもしれない。人間だって、意味もなく爪を噛むことがある。ペン先を噛むこともある。スマホの画面を意味もなく触ることもある。サメがケーブルをかじるのも、それに近いのではないかと、俺はたまに思う。

 ただ、サメが爪を噛むのと違って、ケーブルが切れると世界中の通信が途切れる。もちろん、一本切れたからすべてが終わるわけではない。世界はそこまで単純ではない。迂回路もあるし、別の回線もあるし、復旧のための仕組みもある。だが、それは地上の言葉だ。海底で、ライトの中に横たわるケーブルを見ていると、そんな保険の話はどうでもよくなる。目の前の一本が切れたら、少なくともこの場所の世界は切れる。

 この仕事をしている会社は、パイレーツオブシャークという。ふざけた名前だと思う。初めて聞いた時、俺は詐欺かと思った。海賊なのか、サメなのか、警備会社なのか、観光業なのか、何もわからなかった。だが、面接は妙にまともだった。深海作業に耐えられるか。閉所に強いか。長時間、誰とも話さなくても平気か。緊急時に冷静でいられるか。そういうことを聞かれた。俺はほとんど全部に、たぶん大丈夫です、と答えた。

 たぶん大丈夫です、という人間は、だいたい本当に大丈夫な人間だ。少なくとも、俺はそうだった。深海には、やる気のある人間より、壊れにくい人間のほうが向いている。何かを成し遂げたい人間は、暗闇に意味を求めすぎる。仲間と一緒に頑張りたい人間は、無線の沈黙に傷つきすぎる。明るい未来を信じている人間は、窓の外に未来がないことを思い知らされる。俺はその点、最初からあまり期待していなかった。

 給料は手取りで月七十二万円だった。世間でいう普通からは、かなり上振れた金だ。最初の頃は、毎月増えていく口座の数字を見るだけで胸がざわついた。こんなことがあっていいのか、と思った。俺がサメを押しているだけで、こんなに金が入ってくる。だが、皮肉なことに、深海にはコンビニも自動販売機もない。金は使う場所があって、初めて金になる。使えない金は、ただの数字だ。

 最初はその数字が嬉しかった。口座に百万円が残った時、俺は少し笑った。三百万円を超えた時、もう少し笑った。五百万円を超えた時、自分が何かを成し遂げた気がした。一千万円を超えた時、しばらく画面を見ていた。だが、それからは数えるのをやめた。たぶん、まだ一億には届いていないはずだ。届いていたとしても、深海でできることは変わらない。ケーブルを見て、サメを押し、報告するだけだ。

 俺は一日に三時間、深海にいる。ただし、潜るのに二時間かかる。浮上するのにも二時間かかる。準備や確認を含めると、結局は世間一般と同じように八時間労働になる。資本主義はよくできている。どれだけ変な仕事に就いても、どれだけ変な場所で働いても、最後にはみんな同じラインに並ぶ。地上の人間はオフィスに入り、俺は海に沈む。だが、勤務時間という線の上では、俺たちは同じ場所にいる。

 海上までは一キロ以上ある。数字で言えば、それほど遠くない。街なら歩ける距離だ。コンビニまで一キロなら、少し面倒だが行ける。駅まで一キロなら、日常の範囲だ。だが、上に一キロある海は、横に一キロある道とは違う。上には水がある。圧力がある。暗闇がある。人間がそこにいてはいけないという、物理的な拒絶がある。たった一キロなのに、地上のすべてが別の宇宙みたいに遠い。

 基本的には誰とも話さない。一時間ごとに定時連絡があるだけだ。無線から声がして、こちらの状態を報告する。水深、視界、ケーブルの状態、周辺に異常なし。そんな言葉を、毎回ほとんど同じ調子で言う。リモートワークという言葉が流行る前から、俺はリモートワークをしていた。ただし、画面の向こうに会議相手はいない。背景をぼかす必要もない。俺の背景は、最初から真っ黒だ。

 それでも俺は、この仕事を嫌いではない。むしろ、かなり性に合っている。ライトが照らす海底をゆっくり進むと、世界の余計な部分が消えていく。広告もない。通知もない。誰かの機嫌もない。ニュースもない。あるのは、ケーブルと砂と、時々、名前も知らない生き物の影だけだ。人間は情報が多すぎると、自分の輪郭を見失う。深海はその反対だ。何もなさすぎるせいで、自分の輪郭だけが残る。

 ケーブルは黙っている。だが、その沈黙は空っぽではない。むしろ、中身が多すぎるから黙っているように見える。地上の世界は、たえず喋っている。誰かが怒り、誰かが笑い、誰かが売り、誰かが買い、誰かが検索し、誰かが救いを求めている。その声の束が、ここでは一本の線になっている。俺はその線を見ながら、自分だけが世界の裏側を見ているような気になる。

 もちろん、そんな気分はすぐに消える。俺は英雄ではない。海底の守護者でもない。勤務表に従って潜り、作業マニュアルに従って確認し、サメがいれば無線で知らせるだけの労働者だ。世界を守っていると言えば聞こえはいいが、実際にやっていることは単純だ。サメを見つける。オペレータと画面を共有する。ケーブルをかじっているか、ケーブルに興味を示しているかを判断する。問題があれば、押す。

 押すという言葉は、妙に平和だ。肩を押す。背中を押す。ドアを押す。誰かを応援する時にも、背中を押すと言う。だが、俺の押すは、もっと物理的だ。探査機からプッシュアームを伸ばし、上下左右に動かし、サメの体へ向ける。押すというより、体当たりに近い。けれど、殺しはしない。傷つけることを目的にしているわけでもない。ただ、そこから離れてもらう。世界の線に歯を立てない場所まで、少しだけ移動してもらう。

 俺はその時、いつも変な気持ちになる。サメは敵なのか。仕事の対象なのか。迷惑な客なのか。あるいは、ただ腹を減らした生き物なのか。俺は世界を守っているつもりで、何かを追い払っている。地上の人間が安心して通信できるように、深海の生き物をどけている。正しいことをしているはずなのに、完全には正しい気がしない。たぶん、世界を守る仕事には、いつも少しだけ後ろめたさが混じっている。

 今日も、ケーブルは暗闇の中に横たわっている。手で握れそうなほどの線だ。だが、その線の中を、俺には触れられない世界が走っている。俺はそのそばを、ゆっくり進む。ライトの白い円が海底をなぞる。砂が舞う。遠くの闇が、こちらを見ているように感じる。俺は無線のボタンに指をかけ、いつもの報告をする。異常なし。ケーブル状態、良好。周辺、生物反応なし。世界は今日も、まだ切れていない。

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