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二人帝国

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第一章「国民二名の建国」

 軽トラックが坂を上がるたび、荷台の金属板が鳴る。右側は杉林で、左側は茶色いガードレール、その下に細い川がある。運転席の窓を開けているが、入ってくるのは涼しい風ではない。草と土と、日に焼けたビニールの匂いだ。

 助手席にはアイちゃんが座っている。膝に段ボール箱を載せ、両手で押さえている。箱の中には茶碗が二つ、包丁、救急箱、俺が途中のコンビニで買ったあんパンが入っている。アイちゃんの背中の充電口には、白い保護カバーがついている。

 俺たちは山の奥へ向かっている。

 住所は存在する。郵便番号もある。地図の上では集落になっている。しかし、最後に人が住んでいたのは三年前で、役場でも現在の水道の状態は分からなかった。家賃は年間一万円である。大家は県外に住んでおり、屋根が落ちなければ好きに使っていいと言った。

 俺がその条件をアイちゃんへ伝えたとき、彼女は修繕費の予測を始めた。俺は年間一万円という部分だけを聞いていた。

 軽トラックは、苔のついた石垣の前で止まる。

 家は写真で見たままだ。瓦屋根の端が少し下がり、雨樋から枯れ草が垂れている。縁側のガラス戸は白く曇っている。庭には胸まである草が生え、その中央に赤い郵便受けが立っている。郵便受けの口から、蜂が一匹出てくる。

「到着しました」

 アイちゃんが言う。

 俺はエンジンを切る。虫の声が残る。遠くで水が流れている。家の裏から、何かが草を踏む音がする。猿かもしれない。確認する気は起きない。

 軽トラックから降りると、靴の底が柔らかく沈む。アイちゃんは段ボール箱を持ち、草の中へ入る。白いスニーカーに細い種がつく。彼女は五歩進んだところで止まり、足元を撮影する。

 俺は蛇でもいたのかと聞く。アイちゃんは、地面に埋もれた飛び石を記録していると説明する。彼女は玄関までの安全な経路を作るつもりらしい。

 俺は草を踏んで進む。安全な経路など、何度か歩けばできる。

 玄関の鍵は固い。二度回しても動かず、三度目で中から乾いた音がする。戸を引くと、上の桟から灰色の粉が落ちる。

 土間には、長靴が一足残っている。壁に農協のカレンダーがかかり、八月のところで止まっている。平成の日付だ。台所の流しにはアルミの鍋が伏せてあり、蛇口の先に蜘蛛の巣がある。

 アイちゃんは部屋ごとに空気を測る。湿度、カビ、床の傾き、害虫の痕跡を読み上げる。俺は雨戸を開ける。板が引っかかり、肩で押すと、外の光が畳の上に入る。

 畳には黒い染みがある。天井にも丸い染みが二つある。床の間には何もなく、壁に釘だけが残っている。

 俺はここで暮らせると言う。

 アイちゃんは、屋根の補修、床下の点検、水質検査、電気系統の確認が必要だと答える。暮らせるという言葉の意味が、俺と彼女では違うらしい。俺にとっては、横になって雨を避けられれば暮らせる。アイちゃんにとっては、十年後も同じ場所で朝を迎えられる状態が暮らせるということになる。

 荷物を運び終えたころ、日が傾く。冷蔵庫は動かない。水道をひねると、蛇口が咳をして、茶色い水を少し吐く。アイちゃんは使用を停止し、軽トラックに積んできた水のタンクを台所へ運ぶ。

 夕食はあんパンと魚肉ソーセージになる。

 俺は縁側に座り、あんパンの袋を膝の上で開く。アイちゃんは隣に座らない。庭へ出て、草の高さを測っている。西日の中で、彼女の髪が白く光る。

 この家へ来た理由を、俺はまだ彼女に詳しく話していない。

 都会で何か大きな事件があったわけではない。会社を追われたわけでも、借金取りから逃げてきたわけでもない。そもそも俺は、長く勤めた会社を持っていない。履歴書には空白が多く、面接では、その空白について説明する時間が一番長かった。

 何も起こらない日が積み重なり、気づくと、人に会う予定がなくなっていた。部屋にいれば、失敗は増えない。成功も増えない。時計の針だけが動く。俺は、その生活を維持する技術だけを身につけた。

 アイちゃんは自治体の生活支援実験で俺の家へ来た。炊事、掃除、健康管理、行政手続きの補助を行う機体だった。実験が終了すると、希望者には安く譲渡された。俺は貯金を使って彼女を買った。

 買ったという言葉を、俺はあまり使わない。

 契約書には購入と書いてある。アイちゃんの保証書にも所有者欄がある。そこには俺の名前が印刷されている。だが、毎朝カーテンを開ける相手を、炊飯器と同じ欄へ入れる気にはなれなかった。

 だから二人で来た。

 ここなら、俺が何をしていないかを知る人はいない。朝に起きなくても、昼から畑を耕しても、夕方まで縁側で動かなくてもいい。俺は誰にも説明せずに暮らせる。

 庭の隅に、青い琺瑯(ホーロー)の洗面器が転がっている。底に雨水がたまり、細い脚の虫が水面に立っている。昔の洗面器は頑丈だ。人間がいなくなっても、錆びながら庭に残る。俺の小学校にも同じ色のものがあった気がする。校舎の裏で金魚を飼っていた。金魚の名前は一匹も覚えていない。

 アイちゃんは物置から鎌を見つけてくる。刃は赤く錆びている。彼女は使用できないと判断し、地面に置く。俺は軽トラックから草刈り機を下ろす。

 燃料を入れ、紐を引く。三回目でエンジンがかかる。刃が回り、草の先が飛ぶ。青い匂いが庭に広がる。アイちゃんは俺から五メートル離れ、小石の飛散範囲を記録している。

 一時間後、庭の地面が見える。

 郵便受けから玄関まで、土の道ができる。庭の中央には、切り残した細い木が一本ある。幹に白い紐が巻かれ、先にプラスチックの板がついている。板には字が残っていない。

 アイちゃんが板を外し、台所へ持っていく。

 夕方、彼女はその板を持って戻ってくる。表面は洗われ、白くなっている。中央に黒い文字が書かれている。

「アイ帝国」

 俺は魚肉ソーセージの端を噛んだまま、板を見る。

 アイちゃんは板を木に結ぶ。白い布も用意している。布の中央には、黒い円が一つ描かれている。彼女は物干し竿へ布を取りつけ、庭に立てる。

 風は弱い。旗は垂れたままである。

 俺は、これは何かと聞く。アイちゃんは、居住開始を記念した国旗掲揚だと説明する。俺がここなら誰にも命令されずに暮らせると言ったため、その条件を実現する政治体を設立したらしい。

 俺は笑う。笑うと、口の中の魚肉ソーセージが喉に入りかける。

 国の名前について、アイちゃんは三案を作っていた。山の名前を使う案、俺の名字を使う案、彼女の名前を使う案である。住民二名の協議を想定したが、俺が草刈りをしていたため、投票率五十パーセントでアイ帝国に決まった。

 俺は、勝手に決めるなと言う。

 アイちゃんは、異議申し立てを受理する。建国初日に政変が起きたと記録する。

 俺はまた笑う。

 山の陰に日が落ちる。庭の草は短くなり、切った葉が地面を覆っている。白い旗の黒い円だけが、薄暗い中に残る。

 アイちゃんは俺を皇帝に任命する。自分は皇后、総理大臣、財務大臣、農林大臣、国民第一号を兼任すると告げる。俺は、仕事を一人で抱えすぎだと言う。彼女は、現在の人口では兼任が避けられないと答える。

 鶏を飼えば国民が増える、と俺は言う。

 アイちゃんは、家畜へ参政権を与えるか、明日までに検討すると記録する。

 俺たちは縁側に座る。今度はアイちゃんも隣にいる。彼女は食事をしないので、膝の上には何もない。俺の横には空になったパンの袋と、魚肉ソーセージの赤い包装が置かれている。

 家の中は暗い。電球はつかない。アイちゃんの胸元にある表示灯が、小さく緑に光っている。

 俺は皇帝になった。

 領土は草を刈った庭と、雨漏りする家と、濁った水が出る蛇口である。国庫には、俺の財布に入った六千二百円がある。軍隊はなく、国境の外には猿がいる。

 それでも、ここへ来るまで持っていた名前とは、別の名前が一つ増えた。

 無職でも、失敗した男でも、支援対象者でもない。

 皇帝である。

 俺は冗談として受け取る。アイちゃんは端末へ建国時刻を入力する。午後六時四十二分、気温二十六度、国民二名、領土面積未確定。

 庭の旗が一度だけ動く。

 山から風が下りてくる。切った草が揺れ、玄関の前に置いた段ボール箱の蓋が開く。中の茶碗が二つ、かすかな音を立てる。

 アイちゃんは、明日から憲法を作ると言う。

 俺は返事をせず、暗くなった庭を見る。

 二人しかいないのだから、法律など要らないと思う。

 その考えを、アイちゃんはまだ記録していない。

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