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ぽんぽこ院蝉太郎は世界を救うのか?

ぽんぽこ院蝉太郎は世界を救うのか
ぽんぽこ院蝉太郎は世界を救うのか

第一章 世界の真上に顔がある

 七月二十一日、午後八時五十三分。

 俺は六畳の部屋で、扇風機の前に座っている。羽根が回り、ぬるい風が顔の汗を乾かしていく。窓は開いている。網戸の外で蝉が鳴いている。日が沈んでから二時間近く経っているのに、ベランダの手すりは熱を持ったままだ。

 テレビでは、パリで気温五十度が観測されたというニュースを流している。画面の中では、噴水に足を入れた観光客が、赤い顔で水をかけ合っている。道路に温度計を置いた映像では、液晶に五〇・一という数字が出ている。フランス人の気象学者が何かを説明している。その声に日本語の音声が重なる。

 俺は冷蔵庫を開ける。麦茶のボトルは空だった。昨日の俺が最後の一杯を飲み、ボトルを冷蔵庫へ戻したらしい。過去の俺は、未来の俺に対して冷たい。水道水をコップへ入れ、氷を二個落とす。氷は音を立てて割れる。

 コップを口へ運んだ時、テレビの音が消える。

 扇風機の音も消える。

 蝉の声も消える。

 静かになったわけではない。音が存在する場所だけを、何かが塞いだ。

 暗い紫色が視界を満たす。

 部屋の壁も、テレビも、持っていたコップも見えている。その全部に重なって、紫色の影がある。とがった目と、とがった口が浮かんでいる。子どもが悪魔の顔を三秒で描いたら、こんな形になるかもしれない。線はない。輪郭もない。ただ暗い色の中に、目と口だけが切り抜かれている。

 声が聞こえる。

 耳から入ってきた声ではない。頭蓋骨の内側で、言葉が直接鳴る。

「ぽんぽこ院蝉太郎が『我は世界を救うものなり。世界のためここに一人の命を捧げる』と宣言し、一人の人間を殺さなかった場合、十二月三十一日の終了後、世界を終わらせる」

 男の声でも女の声でもない。低くも高くもない。怒ってもいない。脅してもいない。決まっていることを読み上げただけの声だった。

 紫色の影が消える。

 扇風機の羽根が回っている。テレビでは気象学者が口を動かしている。網戸の外から蝉の声が入ってくる。コップの中で、氷が一度だけ鳴る。

 俺はコップを持ったまま、テレビを見る。

 画面がパリの街からスタジオへ切り替わる。男性アナウンサーは机に両手を置き、口を開けている。隣の女性アナウンサーは、手元の紙を見ている。二人とも動かない。耳につけたイヤホンから指示が来ているらしく、男性アナウンサーが片手を耳へ当てる。

 画面の下に速報の帯が出る。

「全世界で同一の音声か」

 文字を打った人間も混乱しているらしい。語尾が落ち着いていない。

 男性アナウンサーは、先ほど謎の音声が聞こえたと説明する。放送局の設備による音声ではなく、局内の全員が同じ内容を聞いたと続ける。海外支局にも確認を取っている最中だった。

 俺は窓の外を見る。

 向かいのアパートで、網戸が開く。白いシャツを着た男がベランダへ出る。隣の家でも窓が開く。道路では、自転車に乗っていた高校生が足を地面につけ、スマートフォンを見ている。

 スマートフォンが震える。

 ニュースアプリ、動画サイト、SNSから通知が来る。画面を指で払っても、次の通知が上に重なる。

「今の何?」

「みんな聞こえた?」

「ぽんぽこ院って誰だよ」

「日本語だったよな」

 投稿は一秒ごとに増えていく。英語、フランス語、中国語、アラビア語の文章も流れている。自動翻訳を押すと、全員が同じ宣言について書いている。

 海外の人間にも、日本語として聞こえたらしい。日本語を知らない者も、言葉の意味を理解していた。宣言を聞いた瞬間、翻訳されたのではない。最初から知っていた内容を思い出したと書く者がいる。

 眠っていた者は夢の中で聞いている。全身麻酔を受けていた患者も、目を覚ました直後に宣言を話した。生まれたばかりの赤ん坊は内容を説明できないが、声がした時刻に一斉に泣いたという投稿が出る。

 その日の深夜、心停止していた男の話も報じられる。午後八時五十二分に心臓が止まり、八時五十四分に蘇生した男だった。意識を取り戻した男は、暗い場所で紫色の顔を見て、同じ宣言を聞いたと医師へ話したらしい。

 死んでいる途中の人間にまで連絡するとは、ずいぶん几帳面な存在だ。そこだけは感心する。役所から届く封筒は、住んでいる人間にさえ届かないことがある。俺の家には去年、隣町の佐藤さん宛ての水道料金のお知らせが届いた。佐藤さんが払ったのかは知らない。

 俺はスマートフォンを握ったまま、部屋の中央に立つ。

 ぽんぽこ院蝉太郎。

 その名前を聞いた瞬間から、日本のどこかに同姓同名がいるとは考えていない。

 俺だ。

 間違いなく俺だ。

 ぽんぽこ院という名字を持つ家は少ない。親戚以外で会ったことはない。宅配便の配達員は伝票を見るたび、一度だけ口を閉じる。病院の待合室では、看護師が名字を読む前に息を吸う。電話口で名前を伝えると、二回は聞き返される。

 父親の話では、平安時代の先祖が天皇から賜った由緒ある名字らしい。

 絶対に酒を飲んでいたと思う。

 天皇が一人で百杯飲んだのか、周囲の公家が百杯飲ませたのかは分からない。しらふの人間が、家臣にぽんぽこ院という名字を与える場面は想像できない。授けられた先祖も、その場で断れなかったのだろう。天皇から名字をもらい、嫌ですとは言いにくい。

 蝉太郎という名前も怪しい。

 両親は由緒を説明する。曽祖父にも蝉太郎がいて、家に幸運をもたらしたという。俺は、出生届を書く時に笑いが取れると考えた瞬間があったのではないかと疑っている。

 テレビでは専門家が並んでいる。宗教学者、物理学者、脳科学者、元外交官が、長い机の前に座っている。誰も何も知らない。その事実を、難しい言葉で順番に説明している。

 宇宙人による通信、集団幻覚、未知の電磁波、神の啓示、国際的な情報攻撃という可能性が並ぶ。

 画面が切り替わり、国際宇宙ステーションの映像が出る。宇宙飛行士も宣言を聞いていた。無重力の船内で、紫色の顔を見たと話している。

 俺は天井を見る。

 紫色の顔がある。

 黒ずんだ染みがある天井、その手前に浮かんでいる。さっき視界を覆った顔が、今は手のひらほどの大きさで真上にある。とがった目が俺を見ている。とがった口は閉じている。

 俺は横へ一歩動く。

 顔も動く。

 部屋の端まで歩く。顔は真上についてくる。しゃがむ。顔も下がってくる。立ち上がる。元の位置へ戻る。

 窓から身を乗り出す。向かいのアパートの男も、空ではなく、自分の頭上を見ている。道路の高校生は自転車を倒し、両手で目を覆っている。

 俺も目を閉じる。

 暗闇の中に、紫色の顔がある。

 目を開ける。

 顔は消えない。

 物差しを持ってきて、真上へ伸ばす。先端は何にも触れない。椅子に乗り、丸めた新聞紙を突き上げる。天井には当たる。顔には届かない。

 テレビでは、世界各地の人間が棒を振り、石を投げ、ドローンを飛ばしている。山頂に立った登山者の真上にも、地上と同じ大きさの顔が浮かんでいる。飛行機の機内でも、乗客一人ずつの真上に顔がある。

 画面の速報が更新される。

「政府、ぽんぽこ院蝉太郎氏の確認を急ぐ」

 その下に、名字の分布を調べた結果が表示される。ぽんぽこ院姓は国内に十三人。蝉太郎という名を持つ者は、確認できた範囲で一人。

 俺のスマートフォンが鳴る。

 母から着信が来ている。続いて父、会社の上司、高校時代の同級生、知らない番号が並ぶ。電話に出る前に、玄関のチャイムが鳴る。

 短い音が一回鳴り、間を置いて二回目が鳴る。

 廊下から複数の足音が聞こえる。

 俺は玄関へ行き、のぞき穴を見る。

 黒いスーツを着た男が立っている。その後ろにも男がいる。階段の踊り場には制服姿の警察官が二人いる。アパートの前には黒い車が三台止まり、回転灯の赤い光が外壁を流れている。

 スーツの男が、のぞき穴へ顔を向ける。

 俺の氏名を確認したいと、低い声で告げる。

 俺は返事をせず、天井を見る。

 紫色の顔は、俺の真上にある。

 世界中の人間が同じ顔を見ている。それでも、この顔が見つめている相手は、俺一人だった。

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