文学・思想の一丁目一番地

ギャルとカブトムシ

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第一章 弁当の上の王様

 七月の昼、会社の自動ドアを抜けると、熱い空気が顔に張りつく。ビルの壁が白く光り、駐車場のアスファルトがゆらいでいる。胸ポケットに入れた社員証の角が、歩くたびにシャツを引っぱる。俺はコンビニの弁当を提げ、信号のない細い道を渡る。

 四十歳になってから、夏が急に乱暴になった気がする。たぶん夏は昔からこうで、俺の体が騒がなくなっただけだ。小学生のころは、気温が五十度でも外へ飛び出していただろう。今はスマートフォンに赤い太陽の印が出るだけで、昼飯を抜く案まで検討する。

 会社の近くに、小さな公園がある。ベンチが三つ、錆びた水飲み場が一つ、端には見上げると首が痛くなる木が立っている。幹には太い筋が走り、地面から出た根が土を持ち上げている。枝は道路の上まで伸び、葉が何枚も重なっている。

 その木の下へ入ると、首筋の熱がすっと引く。湿った土の匂いがあり、葉の隙間から落ちた光が、地面の上で細かく揺れている。蒸散効果という言葉が頭に浮かぶ。仕組みを説明しろと言われたら困るが、木が水を吸って葉から出し、その際に周囲の熱を奪うらしい。俺はプログラマーなので、分からない仕組みを知っている単語で包む癖がある。

 空いているベンチに座り、膝の上で弁当の袋を開ける。今日は唐揚げ弁当で、容器の隅に黄色い漬物が三切れ入っている。四十歳の昼飯として何が正しいのか、俺はまだ知らない。珠美は野菜を食べろと言うが、自分も冷凍パスタで夕飯を済ませている。

 珠美とは十二年付き合っている。結婚するのか、しないのか、最近は話題にもならない。二人とも、もういい歳だ。今さら式を挙げる姿も想像しづらく、別れて誰かを探す姿も浮かばない。会えばいつもの店に入り、同じような話をして、電車の時間を確認して帰る。

 俺は弁当の蓋を外し、割り箸を割る。そのとき、頭上で葉が大きく鳴った。鳥が飛び立つ音ではない。枝が何度も揺れ、細い葉が回りながら落ちてくる。俺は唐揚げをつまんだまま、木を見上げる。

 木の根元に、女が立っていた。

 白いTシャツに、デニムのショートパンツをはいている。麦わら帽子の下から、明るい茶色の髪が背中へ垂れている。耳には銀色の輪が光り、長い爪には青い色が塗られている。肩から小さなバッグを下げ、右手には虫取り網を持っていた。

 俺は唐揚げを口へ入れるのを忘れる。女の足元には、緑色のプラスチック製の虫かごが置かれている。透明な蓋には細長い穴が並び、白い取っ手が上へ倒れている。俺が小学生のころに使っていた物と、形がまったく変わっていない。

 まだ、この虫かごが売られているのか。

 蓋の角には傷がなく、緑色も日に焼けていない。倉庫から三十年前の在庫を掘り出した品には見えない。最近、工場から出てきた物だろう。誰かが金型を保管し、毎年同じ形を作っている。虫かごのデザインに革命は必要ない、と判断した人間がいるのだ。

 俺は一度だけ、地方銀行のシステム改修に参加したことがある。画面のボタン一つを動かすために、十七人が会議へ出た。虫かごの会社にも会議はあるのだろうか。取っ手を赤くする案が出て、購買層への影響を検討し、結局は緑のままになったのかもしれない。

 女は麦わら帽子を脱ぎ、虫かごの上へ置く。髪を後ろで束ね、木の幹へ両手をかける。靴底を樹皮のくぼみに押し込み、体を持ち上げる。次の瞬間には、片足が肩の高さにある。腕を伸ばし、枝をつかみ、腹を幹へ寄せる。

 俺は箸を持ったまま、その動きを見ている。女は音を立てずに登っていく。右足を幹へ置き、左手で枝を引き、腰をひねる。白いTシャツの背中に、木漏れ日が丸く落ちる。虫取り網の柄が枝へ当たり、乾いた音を出す。

 会社へ戻って、この話をしても信じてもらえないだろう。昼休みに公園でギャルが木へ登っていたと言えば、設定を足しすぎだと言われる。虫取り網まで持たせれば、話を作るなら細部を削れと忠告される。だが、女は現に俺の頭上にいる。

 女は太い枝へ腰を下ろし、木の奥をのぞき込む。網の柄を両手で持ち、枝の先へ伸ばす。葉の間から白い網が見え、右へ動き、止まり、勢いよく振られる。枝が揺れ、何か黒い物が落ちてくる。

 それは途中で葉にぶつかり、向きを変える。俺の目の前を通り、弁当の中央へ落ちる。容器が膝の上で跳ね、唐揚げが一つ、地面へ転がる。白い飯には黒い土が散り、漬物が容器の外へ飛び出す。

 かなり重たい音だった。

「うわっ」

 俺は弁当を膝から落としかける。黒い物は飯の上でひっくり返り、六本の脚を激しく動かしている。光沢のある腹が見え、太い角が容器の縁へ当たる。脚先の爪が米粒を引っかき、白い飯が周囲へ飛ぶ。

 カブトムシだ。

 俺の知っているカブトムシの寸法から外れている。角の先から腹の端まで、俺の掌に収まらない。黒い体は油を塗った器具の部品に見え、腹の節が動くたびに、茶色い毛がのぞく。角には米粒が二つ貼りついている。

 俺はベンチから腰を浮かせる。弁当を捨てるべきか、虫を払うべきか、判断が止まる。カブトムシは脚を広げ、容器の縁をつかもうとしている。右の前脚が唐揚げに触れ、衣が少し崩れる。

「じっとしてて」

 上から声が落ちてくる。

 俺は命令どおりに止まる。箸を持つ右手だけが、胸の前で浮いている。木の上から女の足が下りてくる。靴底が枝を踏み、膝が曲がり、片手が幹を滑る。女は途中の枝へ移り、体を反転させ、そのまま地面へ着地する。

 麦わら帽子を拾うこともなく、女は俺の前へ来る。長い爪のついた右手を伸ばし、カブトムシの背中をつかむ。ためらいはない。親指と人差し指が胸部を挟み、六本の脚が空中で動く。

 俺の口から、意味のない声が出る。

 女はカブトムシを顔の前へ持ち上げ、角についた米粒を見る。左手の爪で一粒を落とし、口元をゆるめる。カブトムシの脚が手の甲へ触れているが、女は腕を引かない。

「でか。やっぱ、いた」

 女は虫かごの蓋を開き、カブトムシを中へ入れる。黒い体が底へ落ち、枯れ葉を押しのける。蓋を閉めると、カブトムシは透明な壁へ角を当て、がさがさと音を立てる。

 俺は壊れた弁当を見下ろす。飯の中央には、カブトムシの形をした浅い穴ができている。唐揚げの一つには脚の跡らしい線が残り、漬物は地面で砂をかぶっている。食べられる部分を選ぶ作業が必要になる。

 女は虫かごを持ち上げ、俺の弁当へ目を向ける。口元にあった笑いが消え、眉が少し下がる。弁当を弁償すると言い、近くのコンビニを指さす。俺は断る理由を考えたが、昼休みは残り二十分しかない。

 俺たちは並んで公園を出る。女の手の中で、虫かごが揺れている。透明な壁の内側では、巨大なカブトムシが角を上げ、緑色の蓋を押している。通りを歩く会社員が、女と虫かごを順番に見る。

 コンビニの前で、女は自分の名前を流詩亞と書くのだと説明した。読み方は、るしあだった。俺の名前も尋ねられたので、苗字だけを伝える。年齢は言わなかった。聞かれていないことを答えると、自分から老け込む気がした。

 流詩亞は新しい唐揚げ弁当を俺へ渡し、虫かごを胸の前に持つ。プラスチックの中で、黒い王様が脚を動かしている。角には、まだ米粒が一つ残っていた。

 これが、俺と流詩亞との出会いだった。

 この時点で俺が知っていたのは、彼女が木へ登れること、カブトムシを素手でつかめること、俺の昼飯を一つ潰したことだけだった。珠美なら、虫かごを見た時点で三歩は離れる。その珠美との十二年が、緑色の箱の中で音を立て始めていることを、俺はまだ知らなかった。

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