文学・思想の一丁目一番地

もし答えがスクワットじゃないなら問題が間違っている

もし答えがスクワットじゃないなら問題が間違っている
もし答えがスクワットじゃないなら問題が間違っている

第一章 筋肉が怖い

 虎山とら子は登山靴を持ち上げ、靴底を客の方へ向けた。

「ここ、触ってみてください」

 五十代くらいの男が親指で黒いゴムを押した。硬いですね、と言って、もう一度押した。

「岩場を歩くなら、このくらいあった方がいいです。柔らかすぎると足の裏が疲れます。ただ、舗装路を長く歩くなら別です」

 とら子は靴を床へ置いた。男は椅子に座り、いま履いている靴を脱いだ。白い靴下の親指のところが薄くなっていた。

 店は徳島市内にある。登山靴を作って、そのまま売っている。入口の横には茶色と黒の靴が並び、奥には工房へ続く扉があった。扉が開くたび、接着剤と革の匂いが店まで流れてきた。

 男が試着した靴の紐を結んだ。

 とら子はしゃがみ、つま先を押した。

「立ってみてください」

 男が立つ。

 とら子も立つ。

 身長百八十センチ。

 体重九十キロ。

 数字だけ聞いた人は、たいてい一瞬黙る。

 太っているわけではない。腹も腕も尻も、つまめるところがほとんどない。肩から腕へ筋肉が続き、制服代わりの黒いポロシャツは袖のところで少し張っていた。太腿はズボンの布を左右へ押していた。背中にも厚みがあり、店の倉庫から登山靴の箱を六つ持ってきても息は乱れない。

 筋肉がついているのだ。

 かなり。

 男は店内を二往復した。

「これ、いいな」

「右足だけ、かかとが少し浮いてます」

 とら子は一つ下のサイズを持ってきた。男は履き替えて、また歩いた。今度は足音が少し軽くなった。

「こっちですね」

 男はうなずいた。

「君から勧められると、すごく信頼感があるな」

「ありがとうございます」

 とら子は頭を下げた。

 男はレジへ歩いていった。

 信頼感。

 便利な言葉だと思った。

 以前にも似たことを言われたことがある。「山で遭難しても背負って帰ってくれそう」と言われたこともある。それは登山靴の販売員に必要な能力なのか、とら子はいまだに分からない。

 ちなみに、人間の足には片足だけで二十六個の骨がある。両足で五十二個になる。成人の全身の骨は二百六個なので、およそ四分の一が足に集まっていることになる。靴屋で働き始めて知った。初めて聞いたとき、とら子は足にそんなに骨を使ってしまって、肋骨あたりは足りているのだろうかと思った。

 午後六時に店を閉めた。

 とら子はシャッターを下ろし、店内の電気を消した。奥の工房にはまだ明かりがついていた。

「お先です」

 声をかけると、中から誰かが返事をした。

 外へ出る。

 九月になっても徳島の夕方は暑かった。道路の向こうで車が途切れず走っていた。信号待ちをしている間、とら子はスマホを見た。

 彼氏からメッセージが来ていた。

 帰ったら電話したい。

 それだけだった。

 嫌な感じがした。

 理由はなかった。

 胸の奥に小さな硬いものができた。

 その夜、とら子は自分の部屋で電話を取った。

 ベッドの端に座っていた。風呂には入った。髪も乾かした。明日は休みだった。電話が終わったら、コンビニで買ったプリンを食べるつもりだった。

 電話は八分ほど続いた。

 彼氏は別れたいと言った。

 とら子は、すぐには意味が分からなかった。

 聞こえている。

 日本語も分かる。

 しかし言葉が頭の中で形にならなかった。

 彼氏は何度か説明した。

 会っているうちに怖くなったらしい。

 とら子の体が。

 筋肉が。

 肩や腕が。

 とら子が悪いことをしたわけではない、と彼は言った。優しい人だと思っている、とも言った。

 それでも怖いらしかった。

「筋肉が?」

 口から出た。

 彼氏は黙った。

 その沈黙で十分だった。

 とら子は自分の右腕を見た。

 風呂上がりなので半袖のTシャツを着ていた。肘を少し曲げると上腕二頭筋が動いた。

 自分でも分かっている。

 女の子女の子した体ではない。

 肩幅があって、腕が太くて、脚も太い。服を買うときは胸囲より肩を気にする。かわいいと思ったブラウスを試着室へ持って入り、腕が通らなかったこともある。

 けれど、醜いとは思っていなかった。

 筋肉には筋肉の美しさがある。

 そう思っていた。

 鏡の前で背中を見ると、筋肉がきれいに動く。スクワットのあとに太腿を見ると、ちゃんと使ったところが分かる。昨日できなかった重量が上がる。その積み重ねでできた体だった。

 彼氏も、それを分かっていると思っていた。

 違った。

 ただ怖かったのだ。

 とら子は、電話で別れるのは嫌だと言った。

 会って話したかった。

 しかし彼は、もう会いたくないという意味のことを繰り返した。

 声が震えていた。

 そこまで怖いのか。

 とら子は何も言えなくなった。

 怒ることもできなかった。

 自分の体を見た。

 肩。

 腕。

 胸。

 腹。

 脚。

 全部、自分で作った。

 食べて、寝て、持ち上げて、しゃがんで、また持ち上げた。

 その結果を、好きな人が怖がっている。

 電話はいつの間にか切れていた。

 とら子はスマホを耳に当てたまま座っていた。

 画面を見ると通話終了と出ていた。

 プリンのことを思い出した。

 冷蔵庫にある。

 食べる気はしなかった。

 死にたい。

 そう思った。

 かなり自然に出てきた。

 明日のことを考えたくなかった。明後日も、その次の日も嫌だった。店へ行けば客が来る。登山靴を勧める。信頼感があると言われる。箱を運ぶ。昼飯を食べる。家へ帰る。

 全部できる。

 できることが嫌だった。

 こんな状態でも明日は来て、自分は普通に生きられてしまう。

 たぶん、もう死んでいるんじゃないかなと思った。

 体だけ動いている。

 筋肉は元気だ。

 そこが腹立たしかった。

 とら子は床へ座った。

 今日の夜はジムへ行く予定だった。

 脚の日だった。

 スマホを持ち、ジムへ電話した。

 数回鳴って、誰かが出た。

「死にます」

 それだけ言った。

 電話を切った。

 スマホを天井へ投げた。

 かなり強く投げた。

 スマホは天井に当たり、妙に軽い音を立てて落ちた。

 床にぶつかった。

 とら子は見た。

 粉々になっていなかった。

 画面に一本、斜めのヒビが入っている。

「なんでやねん」

 声が出た。

 もっと派手に壊れると思っていた。

 天井に当たったときに割れたのか、床へ落ちたときに割れたのかは分からなかった。

 どっちでもいいことだった。

 死のう。

 とら子は立ち上がった。

 そのとき玄関のドアが鳴った。

 チャイムではなかった。

 ドン、と部屋まで響いた。

 とら子は止まった。

 もう一度。

 ドン。

 扉そのものが揺れている。

 めっちゃ怖かった。

 死にたいと思っていた人間にも、怖いものは怖い。

 とら子は息を止めた。

 また音がした。

 今度は打撃音のあとに、木と金属が一緒にねじれるような音が混じった。

 何をしている。

 誰だ。

 とら子は動けなかった。

 玄関へ続く短い廊下を見た。

 ドン。

 ドン。

 こんな強盗いる?

 頭に浮かんだ。

 もっと静かに入ってくるものではないのか。

 鍵をいじるとか、窓から入るとか、そういう手順があるはずだ。

 これは強盗ではない。

 攻城戦だ。

 次の一撃で、いままで聞いたことのない音がした。

 バキッという音の中に、金属が跳ねる音が入った。

 玄関のドアが内側へ傾いた。

 そこでようやく分かった。

 ドアが破壊されている。

 とら子は後ずさった。

 死にたい。

 確かにそう思っていた。

 でも強盗に殺されるのは嫌だった。

もし答えがスクワットじゃないなら問題が間違っている
もし答えがスクワットじゃないなら問題が間違っている
うしPの小説一覧に戻る
うしPのページに戻る