文学・思想の一丁目一番地
ビューティーパラダイス
第一章 邪知暴虐な自動販売機
うさ子は激怒した。必ず邪知暴虐な自動販売機を除かなければならないと決意した。
私は自動販売機の前で腕を組んでいた。
白、青、赤。ペットボトルと缶が二列に並んでいる。水、お茶、コーヒー、炭酸水、スポーツドリンク。見れば見るほど腹が立ってきた。これだけ種類があるのに、私が欲しいものだけがない。
アサイージュースがない。
私はスマートフォンを取り出して、邪知暴虐と検索した。
邪知は、よこしまで悪い知恵らしい。
ちょっと違う気がした。自動販売機に知恵があるとは思えない。そもそも自動販売機が夜中にこっそり会議を開いて、アサイージュースだけを排除しているわけでもないだろう。
私は心の中で文章を訂正した。
うさ子は激怒した。必ず暴虐な自動販売機を除かなければならないと決意した。
これでいい。
私は世間を知らぬ。
私は月給三十万円である。けれども美容に関しては人一倍敏感であった。
ここまで考えて、私は『走れメロス』をやっている自分に気づいた。高校の国語で読んだ。冒頭だけは妙に憶えている。あれほど有名な文章なのだから、多少借りても太宰治なら許してくれるだろう。
そういえば太宰治の本名は津島修治である。こういう雑学は知っているのに、私は所得税が給料からいくら引かれているのか知らない。不思議な知識配分である。
私が自動販売機の前にいるのには理由がある。
アサイージュースを飲みたかった。
朝から肌の調子が悪かったわけではない。むしろ調子はいい。昨日は十一時前に寝たし、朝には豆乳を飲んだ。お昼にはサラダも食べた。だからこそ午後にはアサイーを入れて、今日という一日を完璧な美容の日にしたかった。
仕事が終わったのは午後五時だった。
私は徳島県にある登山靴の店で販売員をしている。
本当はドア会社の娘である。
父が会社を経営している。ドアを作っている会社だ。家にもドアはたくさんあるが、普通の家なので、必要以上にドアがついているわけではない。玄関には立派な自社製品が入っている。私の部屋のドアも自社製品である。だから何だと言われたら、別に何もない。
大学を卒業してから家でのんびりしていたら、父に「お前は世間を知らなさすぎる」と言われた。
私は世間を知っている。
ニュースも見るし、SNSも見る。東京の家賃が高いことも、円安になると海外旅行が高くなることも知っている。それなのに父は認めなかった。
社会勉強をしろということで、父の友達が経営している登山靴会社で働くことになった。
私は最初、ものすごく怒った。
社会勉強という言葉が気に入らなかった。勉強なら学校でするものである。私は大学まで卒業した。社会人になるために、まだ勉強が残っているなんて聞いていない。
けれど働いてみると、意外と何とかなった。
分からないことがあれば、うしちゃんが教えてくれた。
牛山うし子。
幼稚園の頃からの友達である。私はうさちゃん、彼女はうしちゃん。大人になってからもそのままだ。お互い二十代半ばなのに、会社でも二人きりになるとうさちゃん、うしちゃんである。
うしちゃんは私と違って、ちゃんと働いている。
買掛金だとか売掛金だとか記帳だとか、突然こちらの世界に存在しない言葉を口にする。損益分岐点という言葉を初めて聞いた時は、数学の話をされているのだと思った。
でも、私は知らなくても困らなかった。
私が分からないことは、うしちゃんが分かっている。
商品の在庫がおかしくなっても、うしちゃんが調べる。お客さんから難しいことを聞かれても、工房の人を呼べばいい。返品の処理を間違えても、うしちゃんが直す。
ある日、私が社会勉強なんて面倒だと言ったら、うしちゃんは笑った。
「うさちゃんは笑っていれば、たいていのことはうまくいくよ。分からなかったら、分かる人に任せちゃえばいいんだから」
バカみたいな話だと思った。
しかし、本当にそうなった。
お客さんにはよく話しかけられた。登山の話をされた時は、私はほとんど登山をしたことがないので笑って聞いた。すると相手が自分でずっと話して、最後には靴を買って帰った。
世間とは、ずいぶんちょろくて浅いところらしい。
そう思っていた。
仕事を終えて店を出た私は、アサイージュースを買うために自動販売機へ向かった。
なかった。
別の自動販売機へ行った。
なかった。
コンビニに入った。冷蔵棚を端から端まで見た。野菜ジュースはある。スムージーもある。プロテインまである。しかしアサイージュースはない。
店員さんに聞こうと思ったが、レジに三人並んでいたのでやめた。
スーパーへ行った。
冷蔵コーナー、飲料コーナー、健康食品の辺りまで歩いた。紫色の商品を見つけるたびに近づいたが、ぶどうだったり、ブルーベリーだったりした。
ない。
私は薬局にも行った。
自分でも薬局にはないと思っていた。やはりなかった。
そこで私は最初の自動販売機まで戻ってきた。
ひょっとすると、さっき見落とした可能性がある。
もう一度、端から見る。
水。
お茶。
コーヒー。
炭酸水。
スポーツドリンク。
エナジードリンク。
果汁飲料。
ない。
私は自動販売機の前で腕を組んだ。
そこで激怒したのである。
おかしくない?
アサイーは美容にいい。ポリフェノールも入っている。鉄分もある。見た目だって紫色でかわいい。
これを飲みたい人間が徳島県に私しかいないはずがない。
私は周囲を見回した。
仕事帰りの高校生が自転車で通り過ぎた。犬を連れた女性が歩いている。道路の向こうでは軽自動車が信号を待っている。
この人たちも本当はアサイージュースを飲みたいかもしれない。
知らないだけだ。
あるいは飲みたいのに、自動販売機にないから諦めている。
だとしたら大問題である。
飲みたい時に飲みたいものを飲めない。
人権侵害と言ってもいい。
私はスマートフォンを取り出した。
アサイージュース、自動販売機。
検索した。
それらしいものは出てこなかった。
私は画面を指で何度も送った。アサイーボウルの店、自動販売機の会社、通販の商品、健康食品の記事。欲しい情報はない。
日本中にないのだろうか。
胸の奥が熱くなってきた。
ないなら置けばいい。
最初はその程度だった。
自動販売機の空いているところに、アサイージュースを一本入れてもらえばいいと思った。
でも、日本中には自動販売機がたくさんある。
一台ずつお願いして回るのは面倒だ。
だったら自分でやればいい。
私はスマートフォンのメモを開いた。
「アサイージュースの会社」
そう書いた。
ちょっと弱い。
消した。
「日本中の自動販売機でアサイージュースを買えるようにする会社」
いい。
目的が分かりやすい。
私は歩きながら考えた。
会社には名前がいる。
アサイーパラダイス。
なんか違う。
アサイーワールド。
ださい。
ビューティー。
パラダイス。
ビューティーパラダイス。
私は足を止めた。
いい。
ものすごくいい。
スマートフォンに「株式会社ビューティーパラダイス」と入力した。
会社を作るにはお金がいる。
それくらいは私も知っている。
私は父に電話した。
今夜、大事な話があるとだけ伝えた。
家へ帰ると、父は食卓にいた。
私は椅子に座り、会社を作ることを宣言した。
父は最初、聞き間違えたと思ったらしい。私がもう一度説明すると、箸を置いた。
「お前は世間を知らなさすぎる」
またそれだ。
私は激怒した。
アサイーがどれだけ体にいいのか。日本の自動販売機がどれだけアサイーを無視しているのか。飲みたい時に飲めない社会がどれだけ不便なのか。私は順番に説明した。
父は途中から黙った。
私は説明し続けた。
一時間が過ぎた。
二時間が過ぎた。
母は先にお風呂へ入った。
三時間を超えた頃、父は焼酎を飲み始めた。
それでも私は説明した。
日本中で、誰もが、いつでも、アサイージュースを飲めるべきなのである。
五時間ぐらい経った。
私は汗びっしょりだった。
父はテーブルに肘をつき、額を手で押さえていた。
「もう分かった。お前が正しい」
やった。
私は勝った。
父は開業資金として一億円を出すと言った。
一億円。
私は金額を聞いても、それが会社にとって多いのか少ないのか分からなかった。
でも、一億という響きは強い。
これなら自動販売機をいっぱい置けそうだった。
部屋へ戻ると、私はベッドの上に寝転がった。
株式会社ビューティーパラダイス。
社長、兎山うさ子。
悪くない。
いや、かなりいい。
私はスマートフォンを持ち上げた。
会社を作るなら従業員が必要である。
最初の一人は、もう決まっていた。
私はうしちゃんとのトーク画面を開いた。
「会社作ることになった」
送信した。
数秒で既読がついた。
私は続けて打った。
「うしちゃん、うちで働いて」
送信する。
画面を見ながら、私は笑った。これからきっと楽しいことが起きる。
うしPのページに戻る