文学・思想の一丁目一番地
愛=チョコ
第一章 徳島よ、私は帰ってきたぞ
飛行機の車輪が滑走路に触れた。
蛇山へび子は窓の外を見た。灰色の舗装路が流れ、その向こうに平たい土地が広がっている。遠くに低い山があり、その手前には倉庫の屋根が並んでいた。
徳島だった。
へび子は座席に背中を押しつけたまま、両手を膝に置いた。
帰ってきた。
何年も頭の中で繰り返した言葉なのに、実際に戻ってみると胸の中には何も起こらなかった。
飛行機が減速した。
隣の席の男がスマートフォンを取り出した。黒い帽子を深くかぶり、黒いマスクをしている。東京から乗ってきた時から妙に目立つ格好だった。
機内で一度だけ話した。
へび子が徳島出身だと知ると、男は自分も徳島へ行くのだと言った。へび子がフランスから帰国したばかりで、徳島で菓子店を開く予定だと話すと、男は今度ぜひ寄ります、と言った。
社交辞令だった。
その時へび子は笑顔で礼を言った。
しかし心の中では、店に来るだけで随分と恩着せがましい言い方をするものだと思っていた。
へび子はフランスでは、ちょっとした有名人だった。
パリで修業した。
ただ働いていたわけではない。
トロフェ・ド・ラ・クレアシオン・ショコラティエール。
その年の最優秀賞を取った。
日本人初。
正確にはフランス人以外で初だった。
発表された瞬間、会場には拍手が起きた。翌日の新聞にも名前が載った。店の前には客が並んだ。へび子が作ったチョコレートを食べたいという人間が、朝から歩道に列を作った。
その一方でSNSは荒れた。
外国人に賞を取らせるための政治的な判断ではないか、時代に合わせた演出ではないか、といった書き込みが流れた。
ポリコレという言葉も何度も出た。
三日ほど燃えた。
へび子は厨房でスマートフォンを見ながら、フランスまで来て炎上するとは思わなかった、と笑った。
同僚たちは笑わなかった。
へび子が受賞していなければ賞の価値が下がっていた、と一人が言った。
その言葉だけは今でも覚えている。
へび子は窓に映る自分の顔を見た。
髪を肩のところで切っている。パリへ行った頃は腰まであった。厨房では邪魔だったので短くした。爪も短い。指先には小さな火傷の跡がいくつも残っている。
パティシエの手だった。
昔のへび子に見せてやりたかった。
お前にパティシエなんて無理だ。
フランスへ行くなんて無理だ。
何度も言われた。
両方やった。
しかも賞まで取った。
へび子は小さく息を吐いた。
飛行機が止まった。
乗客が一斉に立ち上がった。頭上の荷物入れが次々と開く。へび子も立ち、鞄を取った。
黒い帽子の男はすでに通路へ出ていた。
到着口へ向かう。
へび子は途中でトイレに寄った。
鏡の前で髪を直し、口紅を塗った。
取材が来ていたら困る。
日本でもニュースになったらしい。
自分では見ていない。パリで働いていると、日本のニュースを見る時間はほとんどなかった。
記者から声をかけられたら、何を言おう。
日本へ帰ってきた理由を聞かれるだろう。
故郷へ恩返しをしたかった。
そう答えるのが無難だ。
本当は復讐だった。
昔へび子を笑った人間たちに、自分の店を見せたかった。
フランスへ行った。
パティシエになった。
賞まで取った。
そして帰ってきた。
ざまあみろ、と言いたかった。
口紅の蓋を閉めた。
到着ロビーへ出る。
人がいた。
ものすごくいた。
へび子は足を止めた。
柵の向こうに数十人が集まっている。スマートフォンを構えている人もいる。若い女性が多い。小さな紙を持っている人もいた。
へび子は背筋を伸ばした。
やりすぎだと思った。
フランス人以外で初とはいえ、菓子の賞である。空港にこれほど人が集まるとは考えていなかった。
少し恥ずかしくなった。
笑顔を作る。
一歩進む。
歓声が上がった。
へび子は軽く頭を下げようとした。
その横を黒い帽子の男が通った。
「キャー!」
歓声が爆発した。
へび子の笑顔が止まった。
人の群れが一斉に右へ動いた。
スマートフォンも右を向いた。
紙を持った女性が名前を叫んだ。
聞き覚えのない名前だった。
黒い帽子の男が手を振った。
へび子はその場に残された。
誰もこちらを見ていない。
黒い帽子の男はスタッフらしい人間に囲まれ、出口へ向かっていった。
途中で一度だけ振り返った。
へび子と目が合った。
男は軽く会釈した。
へび子も会釈した。
今度ぜひ寄ります。
機内で言われた言葉が蘇った。
へび子は急に腹が立った。
何者なんだ、あいつ。
スマートフォンで検索しようと思ったが、名前を覚えていなかった。
そもそも聞いていなかった。
フランスでは、知らない有名人に会うことが時々あった。パリという街は、有名人がいても周囲が案外放っておく。カフェの隣の席に映画俳優が座っていても、店員が普通に水を置くことがある。
ちなみにフランスのカフェでは、テラス席が道路に向いて並んでいることが多い。向かい合って会話するためではなく、通りを眺める形で椅子が置かれている店もある。人間そのものが景色になるのである。
へび子も何度か眺められた。
賞を取った後は特にそうだった。
徳島では誰も見ていない。
へび子はキャリーケースを引いた。
ガラガラと車輪が鳴る。
人だかりが消えると、空港は急に広くなった。
出口の近くに阿波踊りを踊っている像があった。
二人いる。
腕を上げている。
へび子はその前で止まった。
誰もいない。
さっきまでいた人間たちは黒い帽子の男を追って外へ出ていた。
へび子は像を見た。
「フランスの修業が無駄ではなかったこと。それを証明するために、徳島よ、私は帰ってきたぞ」
声が空港に響いた。
返事はなかった。
阿波踊りの二人だけが、永久に踊り続けている。
へび子はキャリーケースの取っ手を握った。
「聞いてる?」
像は踊っていた。
へび子は空港を出た。
外の空気は湿っていた。
パリの乾いた風とは違う。
鼻の奥に、土と海が混じったような匂いが入ってきた。
タクシーに乗り、徳島駅へ向かった。
窓の外を家と田んぼが流れた。コンビニがあり、うどん屋があり、ドラッグストアがある。
何も変わっていないように見えた。
へび子はキャリーケースを足元に置き、両手をその上に重ねた。
最初に行く場所は決めていた。
実家ではない。
昔働いていた登山靴の店だった。
フランスへ行く金を貯めた場所だ。
徳島駅でタクシーを降りた。
そこから歩く。
見覚えのある通りに入ると、胸の奥が少し重くなった。
店はあった。
茶色い看板。
ガラス越しに登山靴が並んでいる。
変わっていない。
へび子は扉を押した。
ベルが鳴った。
店の奥に一人の女がいた。
牛山うし子。
髪を後ろで一つに結び、靴箱を抱えている。
うし子はへび子を見た。
動かなくなった。
へび子は笑った。
「夢から帰ってきたよ」
うし子の顔が崩れた。
目から涙が落ちた。
大げさだ、とへび子は思った。
うし子が靴箱を床へ置いた。
へび子のところまで歩いてきた。
二人は抱き合った。
へび子はうし子の肩に顔をつけた。
洗剤の匂いがした。
その瞬間、目から涙が出た。
空港でも何も感じなかった。
徳島の山を見ても、駅を見ても、昔の道を歩いても何も起こらなかった。
うし子の肩だけが、へび子を徳島まで連れて帰ってきた。
「帰ってきた」
今度は小さな声で言った。
うし子の腕に力が入った。
へび子は泣きながら笑った。
復讐は、そのあとでいいと思った。
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