文学・思想の一丁目一番地
地獄ラーメン
第一章 アイドルは登山靴を売る
龍山たつ子は登山靴を売っていた。
黒いブラウスの袖口から白いレースが出ている。胸元には赤いリボンがあり、黒いスカートは膝のあたりで大きく広がっていた。足には厚底の編み上げブーツを履いている。
山へ行く格好ではなかった。
たつ子は靴箱を両手で持ち、店内の丸椅子に座っている男の前へ置いた。
「二十五・五です」
男は登山用の靴下を履いた足を差し込んだ。つま先を床につけ、かかとを二度踏む。それから立ち上がり、店内を歩いた。
床には灰色のカーペットが敷かれている。壁には茶色、青、黄色の登山靴が並び、その下に値札がぶら下がっていた。三万九千八百円。四万二千円。二万九千七百円。
たつ子は男の足元を見ていた。
店長から教わった通りなら、ここで履き心地を聞き、つま先の余裕を確認し、斜面を模した台を歩かせる。
男は自分から斜面台へ向かった。
たつ子もついていった。
「山はどこ行くんすか」
「剣山」
「ああ」
たつ子は知っているような顔でうなずいた。
行ったことはなかった。
徳島県民だからといって剣山へ登っていると思われては困る。海があるからといって徳島県民全員がサーフィンをするわけでもないし、すだちがあるからといって何にでもすだちをかけるわけでもない。
もっとも、すだちはかなり何にでもかける。
男は靴を脱いだ。
「ちょっと考えます」
「うっす」
たつ子は箱へ靴を戻した。
男は店を出た。
また売れなかった。
レジの向こうで店長が伝票を書いていた。六十代の男で、白髪を短く刈っている。顔を上げずに、たつ子へ声をかけた。
「龍山さん」
「はい」
「うっす、はやめようか」
「はい」
たつ子は素直に答えた。
接客態度については何度も注意されている。
笑顔が怖いとも言われた。
本人としては笑っている。口角を上げ、目を細めている。それなのに店長からは「借金を回収しに来た人みたい」と言われた。
所属事務所では、それを個性として処理された。
治安の悪い顔。
宣材写真を撮った時、カメラマンがそう言った。
褒め言葉だったのかは分からない。
たつ子は鏡を見る。
髪は肩に届かないところで切られている。目元には濃い黒のラインが入り、唇には暗い赤が塗られている。
衣装も黒だった。
本人がなりたかったのは、こういうアイドルではない。
白い衣装を着たかった。
夏には水色のワンピースで歌いたかったし、冬には赤いチェック柄のスカートでクリスマスソングを歌いたかった。ステージの上で手を振り、客席から名前を呼ばれたかった。
そういう、絵に描いたようなアイドルでよかった。
ところが事務所に入って三日目、社長が黒いワンピースを持ってきた。
「これでいこう」
その一言で、たつ子はゴスロリアイドルになった。
理由は顔だった。
笑うと怖い。
真顔でも怖い。
白い衣装を着せると、なぜかこれから誰かを刺しに行くように見える。
そう説明された。
たつ子は納得していない。
しかし仕事は仕事だった。
毎週木曜日、たつ子は徳島市内の登山用品店へ来る。
午前十時に出勤し、午後六時まで働く。靴を出し、箱を片づけ、客にサイズを聞き、たまにレジも打つ。
時給は千百円だった。
本業はアイドルである。
ここは大事なところだった。
たつ子は自分が登山用品店の販売員で、休日にアイドル活動をしているとは思っていない。
アイドルが副業として登山靴を売っている。
そういう認識である。
ただし、勤務時間だけを見ると事情が怪しくなる。
先月のライブは一回だった。
出演時間は十二分。
今月のライブ予定はまだない。
一方で登山用品店には毎週来ている。
スーパーの一日店長もやった。
中古車販売店の一日店長もやった。
焼肉屋では二日続けて一日店長をやった。
二日続けた時点で、それは一日店長ではないだろうとたつ子は思ったが、ギャラが出るので黙っていた。
ライブで歌った回数と「いらっしゃいませ」と言った回数を数えたら、後者が圧勝する。
アイドルとは何なのか。
たつ子は最近、その問題を考えるようになっていた。
午後三時、店の自動ドアが開いた。
若い女が入ってきた。
白いパーカーにジーンズを履き、スマートフォンを握っている。登山靴を見るでもなく、まっすぐたつ子のところへ来た。
「あの、たつ子ちゃんですよね」
たつ子は背筋を伸ばした。
「そうです」
女はスマートフォンを胸元に持ち上げた。
「写真いいですか」
「もちろん」
二人で並んだ。
たつ子は笑った。
女も笑った。
シャッター音が鳴った。
女は画面を見て満足そうにうなずき、そのまま帰ろうとした。
たつ子は思わず靴売り場を見た。
何も買わないらしい。
しかし、少しうれしかった。
写真を撮りに来る人間がいる。
自分を見るために店へ来る人間がいる。
その事実だけで、黒い衣装の袖が少し軽くなった。
店長がレジの奥から言った。
「龍山さん」
「はい」
「仕事」
「はい」
たつ子は靴箱を棚へ戻した。
午後五時を過ぎると客が減った。
店の外では空が黄色くなっていた。ガラス扉に車のライトが映り、国道をトラックが走っていく。
たつ子は段ボールをつぶしていた。
スマートフォンが震えた。
マネージャーからだった。
仕事中なので画面だけ見る。
メッセージには、次の日曜日の予定が書かれていた。
一日店長。
まただった。
たつ子は段ボールを足で踏んだ。
今度はラーメン屋らしい。
場所の下に住所が書かれている。
徳島県内だった。
ただし徳島市から車で二時間と書いてある。
たつ子は画面を二度見した。
「二時間?」
思わず声が出た。
店長が顔を上げた。
たつ子は何でもないと首を振り、スマートフォンをポケットへ戻した。
二時間。
県内なのに二時間。
山の中に違いない。
午後六時になり、たつ子はタイムカードを押した。
店を出ると、九月の空気がまだ生ぬるかった。
黒いブーツで駐車場を歩く。
車へ乗り込み、エンジンをかける。
スマートフォンをホルダーへ差し、マネージャーから送られてきた住所を地図アプリへ入れた。
青い線が徳島市から西へ伸び、それから山の中へ曲がっていく。
たつ子は画面を見つめた。
「遠っ」
日曜日。
たつ子は午前七時に家を出た。
黒いゴスロリ衣装の上から薄い上着を羽織り、車を走らせた。
市街地を抜ける。
コンビニが減った。
信号が減った。
家が減った。
川が道路の横を走り始めた。
さらに進むと、山が近くなった。
道路の片側には岩肌があり、反対側にはガードレール、その下を川が流れている。
カーブが続く。
ラジオの電波が途切れる。
たつ子は何度もナビを見た。
本当にこの先にラーメン屋があるのか。
午前九時を少し過ぎた頃、道路沿いに赤い看板が見えた。
ラーメン。
大きな白い文字が書いてある。
その下に平屋の古い建物があった。
駐車場には車が並んでいる。
一台、二台ではない。
十台以上ある。
店の前には人まで立っていた。
開店前らしい。
たつ子は速度を落とした。
山と川しかない場所だった。
駅もない。
商店街もない。
向かいには自動販売機が一台立っているだけだった。
それなのに、人がいる。
わざわざここまでラーメンを食べに来ている。
たつ子は駐車場へ車を入れた。
エンジンを切る。
フロントガラスの向こうで、客たちが店の入口を見ていた。
たつ子は赤い看板を見上げた。
「なんでこんなところに客がいるんだ」
まだこの時、龍山たつ子は知らなかった。
数時間後、自分がこの店の主人を殴ることになる。
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