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生きる意味って発見するもの? 発明するもの? 哲学的な問い1

第一章 「発見」と「発明」は、何が違うのか

「生きる意味って、発見するもの? それとも発明するもの?」と聞かれたとき、多くの人がまず思い浮かべるのは、どこかに“正解”が埋まっているイメージかもしれない。宝探しみたいに、掘り当てさえすれば人生が一本の筋を通してくれる、と。あるいは逆に、世界には何も書いてないのだから、自分で好きに書き込むしかない、というイメージもある。前者が発見、後者が発明。直感としては分かりやすい。でも、この二つをそのまま二択にしてしまうと、問いが急に息苦しくなる。

なぜなら「発見」には、見つからない恐怖がつきまとうからだ。自分だけが“意味の鉱脈”を掘り当てられないのではないか、という不安。反対に「発明」には、でたらめの恐怖がつきまとう。好きに作っていいと言われるほど、何を作ればいいのか分からなくなり、作ったそばから「所詮、自分の思い込みでは?」と崩れていく。どちらも、人を追い詰める方向に働きやすい。

ここで一度、素朴に「意味」という言葉の中身を点検してみたい。私たちが「意味がある」と言うとき、必ずしも壮大な使命を想定しているわけではない。今日一日が少しだけ納得できた、誰かとちゃんと話せた、手を動かして何かが前に進んだ、そういう小さな手応えも「意味があった」と言える。一方で「意味がない」と感じるときは、出来事が無秩序に散らばり、努力と結果が結びつかず、自分が世界と噛み合っていない感覚が強い。つまり、意味とは“世界のどこかに単体で置いてある物体”というより、世界と自分のあいだに生まれる関係の質に近い。

関係だと考えると、発見と発明の境界が少し変わってくる。発見とは、世界の側から来る手触りを受け取ることだ。たとえば、何かを学ぶと妙に頭が冴えるとか、誰かを助けたら自分の中に静かな熱が残るとか、ある場所に行くと呼吸が楽になるとか。そういう反応は、意志で無理やり捏造しにくい。もちろん、錯覚や勘違いはあるにせよ、そこには「自分の外から来る材料」がある。発見とは、その材料を見逃さない態度だと言える。

一方、発明とは、その材料をどう“形”にするかの仕事だ。たとえば、同じように人を助けるのが好きでも、看護師になる人もいれば、技術で支える人もいるし、近所の人と挨拶を交わし続けるだけで十分な人もいる。材料は似ていても、作品は違う。発明は、選び、組み立て、続けることで「自分の人生」という形を与えていく行為だ。ここには自由があるし、その分、責任もある。

この二つを比べると、発見が得意な人と発明が得意な人がいる、という話にも見えてくる。でも本当は、どちらか片方だけで生きるのは難しい。発見だけだと「見つけた意味」に振り回される。たまたま出会った仕事や恋や思想を、運命だと誤解して依存してしまうことがある。逆に発明だけだと、空中に城を建てるみたいに足場が弱くなる。根拠のない理想を掲げ、疲れた日に一気に虚しくなる。両方のバランスが要る。

ここで役立つのが、「意味には二種類ある」という感覚だ。一つは“説明としての意味”。なぜ自分はここにいるのか、どうしてこんなことが起きたのか、という因果や物語の意味づけだ。もう一つは“価値としての意味”。それを続けたい、守りたい、やってよかったと思える、という価値の手応え。説明の意味は、発見に近い顔をしている。物語として「そうだったのか」と腑に落ちる感覚は、見つけた感じがするからだ。価値の意味は、発明に近い顔をしている。続けると決め、守ると決めることで、価値は育つからだ。

ただし注意したいのは、説明が上手くいったからといって、価値が生まれるとは限らないことだ。たとえば「自分はこういう環境で育ったからこうなった」と綺麗に説明できても、それで明日が良くなるとは限らない。逆に、説明がうまくできなくても、価値は立ち上がることがある。理由は分からないけれど、この人といると落ち着く、とか、この作業をしているときだけ時間が澄む、とか。生きる意味の話で詰まりやすいのは、説明と価値を混ぜてしまうからかもしれない。

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