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言葉にできないものは存在しない? 哲学的な問い2
第一章 言葉にできないと感じる瞬間は、なぜ生まれるのか
「言葉にできない」。私たちはこの短いフレーズを、思った以上に頻繁に使っている。映画を観て胸がいっぱいになったとき。誰かの優しさが刺さったとき。逆に、理不尽に傷つけられて怒りで手が震えたとき。あるいは、何も起きていないのに、理由のない不安が胸の底に沈んでいるとき。そんな場面で人は、「言葉にできない」と言う。これは単なる口癖ではない。そこには、言葉という道具を握っているはずの私たちが、ふいにそれを落としてしまう瞬間がある。
では、なぜ落としてしまうのか。まず素朴な仮説がある。「語彙が足りないから」だ。たしかに、語彙が増えると世界は細かく見えるようになる。たとえば「悲しい」しか持っていなかった人が、「寂しい」「悔しい」「虚しい」「切ない」「やるせない」を知ると、自分の内側で起きていることの輪郭が少しずつはっきりしていく。言葉は世界を切り分ける刃物のようなものだ。刃が荒ければ、切り分けも荒い。刃が細ければ、繊細に切れる。だから「言葉にできない」は、単に刃物が鈍い状態だ、という説明は魅力的に見える。
けれども、それだけでは説明しきれない瞬間がある。たとえば、語彙が豊かな人ほど「言葉にできない」を言うことがある。小説家が、詩人が、批評家が、あるいは普段から言葉で考えている人が、いちばん言葉を失う場面がある。語彙の問題だけなら、彼らは沈黙しないはずだ。むしろ流暢に語れるはずなのに、そこで口をつぐむ。ということは、「言葉にできない」は、能力不足というよりも、別種の壁にぶつかったサインかもしれない。
その壁の一つは、経験の密度だ。言葉は、経験をそのまま運ぶことができない。言葉は経験の“圧縮”であり、“要約”である。私たちは「痛い」と言うが、その痛みは、鋭いのか鈍いのか、深いのか浅いのか、身体のどこに広がるのか、時間とともにどう変化するのか、そういう細部を全部たたんで「痛い」に押し込めている。圧縮は便利だが、情報は落ちる。日常会話が回るのは、落ちた情報をお互いに許しているからだ。ところが、経験の密度が高すぎると、圧縮したときに落ちる情報が多すぎて、本人が耐えられない。「これを“悲しい”で済ませたくない」「“嬉しい”なんて一言に押し込めたくない」と感じる。だから沈黙が生まれる。言葉にした瞬間、何かを裏切ってしまう気がする。これが「言葉にできない」の、かなり大きな理由だと思う。
もう一つは、経験がまだ“まとまっていない”という理由だ。言葉は、まとまりを要求する。主語がいて、述語がいて、原因があって、結果があって、筋が通っている。あるいは筋が通っていないなら、通っていないという筋が通っている必要がある。つまり、言葉は世界を整理し、整列させる圧力を持っている。だが実際の感情や体験は、整列していない。好きと嫌いが同時にある。許したいのに許せない。尊敬しているのに軽蔑もしている。そんな矛盾した混ざりものを、私たちは抱えて生きている。矛盾は、言葉にした瞬間に矯正される。「本当はどっちなの?」と問われ、どちらかに寄せて答えざるを得なくなる。だから、言葉にできない。できないというより、したくない。いま言葉にすると、矛盾を殺してしまうからだ。
ここで面白いのは、「言葉にできない」という発言そのものが、すでに言葉だという点だ。沈黙の表明でありながら、私たちはそれを口にしている。この逆説は示唆的だ。つまり私たちは、本当に何も言えないわけではない。言えることがある。ただ、言えることが、肝心の部分に届いていないと感じている。届かない言葉を使うくらいなら、いっそ言わない方が誠実だ、という感覚が生まれる。けれど同時に、完全な沈黙は不安でもある。相手に誤解されるかもしれないし、自分自身が自分を見失うかもしれない。だから「言葉にできない」と言う。これは、沈黙と会話のあいだに橋をかける言葉だ。言葉で言葉の限界を示す、妙な旗の立て方である。
また、「言葉にできない」は、社会の空気とも関係している。言葉には、共有されやすい型がある。よくある感想、よくある説明、よくあるストーリー。私たちはその型に沿って語ると、安心するし、理解されやすい。だが、型に沿えば沿うほど、個別の体験は削られていく。「失恋した。つらい」で済むなら話は早い。しかしその失恋が、つらいだけではないときがある。自分の弱さも、相手の優しさも、過去の後悔も、未来の恐怖も、すべてが絡みついている。型に押し込めると、それらが消えてしまう。だから「言葉にできない」となる。これは、社会的に流通する言葉の型が、個人の経験の複雑さに追いつかないという問題でもある。
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