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BIが実現したら? 哲学的な問い5

第1章 BIとは何か、そして“なぜ今”なのか?

ベーシックインカム(BI)という言葉には、なぜか独特の匂いがある。希望の匂いと、怠惰の匂いと、国家の匂いが同時に混ざっている。聞いた瞬間に「それ、いいじゃん」と頷く人がいる一方で、「そんなの社会が崩壊する」と即座に拒絶する人もいる。つまりBIは、単なる政策案ではない。人間観のぶつかり合いであり、道徳の前提を試す装置であり、ひいては「生きる資格とは何か」という問いを、いきなり生活の玄関先に置いてしまう爆弾だ。

まずは定義から始めよう。BIとは、原則としてすべての人に、無条件で、定期的に、一定額の現金を給付する制度である。無条件というのは、「働いているか」「貧しいか」「病気か」「子どもがいるか」といった条件を問わないということだ。普段の社会保障が、申請書類や審査や要件の網の目でできているのに対して、BIはそれを大胆に切り落としてしまう。だから支持者は言う。複雑な福祉をシンプルにし、漏れを減らし、生活の土台を保証できる。反対者は言う。そんなものは財源が持たないし、働く意欲を奪い、社会の秩序を壊す。どちらももっともらしい。だが大事なのは、BIが議論されるとき、人々はすでに「人間は金がないと働かない」という仮説を前提にしている点だ。そしてその仮説が正しいかどうかを、私たちは実はよく知らない。

では、なぜ今BIなのか。昔から「貧しい人に金を配ればいい」という素朴な発想はあった。だが、今のBI論が持つ熱量は、単なる慈善の域を超えている。それは、社会の土台がすでに軋んでいるからだ。まず一つは、雇用の不安定化である。かつては学校を出て会社に入り、定年まで勤め上げることがモデルとして成立していた。もちろんそのモデルが万人に優しかったわけではないが、少なくとも「働けば生活が立つ」という物語は社会の中心にあった。しかし今、非正規や短期契約、ギグワークのような働き方が広がり、景気や社会情勢や企業の都合で、人の生活は簡単に揺さぶられる。働いていても貧しい、という現象は、単なる個人の努力不足では説明できなくなっている。働くことが生活の保証にならないなら、働くことを前提に組まれた制度や道徳も、どこかで破綻する。

二つ目は、福祉制度の複雑さと、その副作用である。現代の社会保障は、困っている人を助けるために設計されているはずなのに、現実には「困っていることを証明しなければ助けられない」という矛盾を抱えている。申請しなければ受け取れない。条件を満たさなければ切られる。書類を揃え、窓口に行き、場合によっては生活の恥部を説明しなければならない。その過程で、助けが必要な人ほど脱落する。これを「スティグマ」と呼ぶことがあるが、要するに、人は「助けられる側」に回ることに痛みを感じる。BIが魅力的に見えるのは、この痛みを制度の側から消せるかもしれないからだ。誰もが受け取るなら、受給は恥ではなくなる。福祉の手続きや監視や疑いのコストも減る。もちろん、そう単純にいくかは別として、少なくとも方向性としては「救済を、屈辱から切り離す」という革命がそこにある。

三つ目は、テクノロジー、特に自動化とAIがもたらす労働観の揺らぎだ。人間が行ってきた仕事の一部が、機械やソフトウェアに置き換わる。これは昔からあった現象だが、近年のAIは「知的な作業」まで侵食し始めている。すると、社会は奇妙な問いに直面する。もし、働く場が減っていくなら、人間はどうやって生きるのか。あるいはもっと正確に言えば、「働くこと」を生存の条件にしている社会は、このまま維持できるのか。ここで重要なのは、仕事が減ることそのものではなく、仕事が減ったときに露出する倫理的矛盾だ。生存の条件を、社会が十分に用意できない労働に結びつけたままにするのか。それとも、生存を先に保証し、労働を別の位置づけにし直すのか。BIは、その岐路に立つ社会が考え出した一つの答えだ。

ただし、BIは「未来のための制度」だけではない。むしろ今すでに、私たちの社会は、無数の“見えないBI”で繋ぎ止められているとも言える。家族の仕送り、親の援助、配偶者の収入、貯金、遺産、地域の助け、あるいは借金。生存を支える土台は、必ずしも賃金だけではない。しかしそれは運と縁に依存している。運がいい人は支えを持つ。運が悪い人は落ちる。BIが問いかけるのは、こういう偶然に支配された生存の構造を、社会として引き受け直すのかどうか、ということだ。つまりBIは「金を配るか否か」ではなく、「生存を共同で負担する覚悟があるか」という問いなのである。

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