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AIで代替できない人間の価値ってなに? 哲学的な問い6

第1章 「代替できる」とは、どういう意味か?

「AIで代替できない人間の価値ってなに?」という問いは、じつは二つの問いが重なっている。一つは、能力の問いだ。AIができることが増えると、人間の仕事や技能は置き換えられるのか、どこまで置き換えられるのか。もう一つは、存在の問いだ。もし仕事や技能が置き換えられるなら、人間そのものの価値まで消えてしまうのか。多くの不安は、前者から後者へ、いつの間にか滑り落ちていく。だから最初にやるべきことは、言葉の足場を固めることだ。「代替できる」とは何を意味しているのか。そこを曖昧にしたまま議論すると、結論も曖昧なまま、人の心だけが削れていく。

たとえば、あなたがコンビニのレジでセルフ会計を使ったとしよう。店員がいなくても会計はできる。これは「店員を代替した」と言える。しかしそれは「店員という人間を不要にした」と同じ意味だろうか。店員は会計という作業以外にも、客の困りごとを見て動いたり、トラブルを収めたり、店の空気を整えたりする。もっと言えば、店員という人がそこにいること自体が、安心感になる場合すらある。つまり代替とは、ある機能の置き換えであって、人間存在の完全な複製ではない。にもかかわらず、私たちは「機能が置き換わる」ことを「人間が不要になる」ことへ短絡させてしまう。その短絡が恐怖を増幅させる。

ここで大事なのは、「何が同じなら代替と言えるのか」という基準である。結果が同じなら代替なのか。過程まで同じでなければ代替ではないのか。あるいは、周囲が同じように感じれば代替なのか。この基準によって、話は大きく変わる。結果主義で考えれば、翻訳も要約もイラストも、ある程度まではAIが代替できる。人間が行っていた作業を、同等かそれ以上の品質で出してくるからだ。しかし、過程の価値を重視する立場に立てば、事情は変わる。人間が迷い、試し、失敗し、手探りで形にしていく、その時間や痕跡に価値があると考えるなら、結果が同じでも同じではない。たとえば手紙は、伝達という機能だけ見ればメールに負けている。それでも手紙が手紙であり続けるのは、過程が価値を運んでいるからだ。紙を選び、ペンを持ち、書き、封をし、投函し、届くまで待つ。その遅さや手間が、相手への重みとして届く。

では、AIが人間の代替に見えるとき、何が起きているのか。私はそれを「価値の測り方が単一化する瞬間」だと思う。つまり、測る尺度が“効率”や“精度”や“平均的満足度”に寄っていくとき、AIは人間より強くなる。逆に、測る尺度が“関係”や“責任”や“固有性”へ向かうとき、代替という言葉は効かなくなる。だからこの問いは、AIの性能についての問いというより、私たちが何を価値として数えているかという問いなのだ。言い換えれば、AIが人間を代替するのではなく、私たちが価値の定義を変えることで、人間を代替可能なものに見せてしまう。

ここで、さらに一歩進めて考えたい。代替という言葉には、そもそも「不要」という響きがある。代替品、代役、代行。そこには、オリジナルが欠けた穴を埋める、というニュアンスがある。だから「人間が代替される」と聞くと、人間が穴扱いされているように感じる。その不快感は正しい。だが一方で、人間の側も、しばしば自分を穴として扱ってきた。つまり「役に立つこと」「求められる機能を果たすこと」を自分の価値の中心に置く生き方だ。これは近代の労働社会が長い時間をかけて作ってきた癖でもある。あなたは何ができるのか。どれくらい速いのか。どれくらい正確なのか。どれくらい稼げるのか。そうした問いに答え続けるうち、人間は自分の存在を“機能の束”として捉えるようになった。AIが来て怖いのは、AIが強いからだけではない。自分の価値の置き場を、すでに機能に預けてしまっていたからだ。

この章で言っておきたいのは、価値の置き場を取り戻すことは可能だ、ということだ。なぜなら価値の定義は、自然法則ではなく、人間の取り決めに近いからである。もちろん、取り決めだからといって自由に変えられるわけではない。社会全体の制度や慣習が絡むし、生活のために機能で評価される場面は今後も残る。けれど、少なくとも自分の内側で「自分の価値は機能だけで測る」と決め打ちする必要はない。むしろ、それをやると、AIの進歩はそのまま自己否定の材料になってしまう。進歩のニュースを見るたびに心が削れる。これは不毛だ。だからまず、代替という概念を分解して、どこまでが機能の代替で、どこからが存在の問題なのかを切り分ける。それだけで恐怖の輪郭が変わる。

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