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嘘が簡単に作れる時代に真実は存在できる? 哲学的な問い7
第一章 嘘が“コストゼロ”になった世界の風景
昔の嘘には、まだ値札が付いていた。嘘をつくには、口裏を合わせる仲間が要った。帳簿をいじるには手間が要った。写真を偽造するには技術が要った。録音を切り貼りするにも時間が要った。つまり嘘は、作る側に現実的な負担を強いることで、自然に数が抑えられていた。嘘が少ないというより、嘘は高かった。高いものは乱発しにくい。だから私たちは、日常の大部分を「とりあえず信じる」という省エネモードで生きられた。疑い続けるのは疲れるし、社会は疲れ切った人間の集合では回らない。信じることは、世界のコストを下げる技術だった。
だが、ある時から嘘の値札が外れ始めた。画像も動画も音声も文章も、真似るのが容易になった。もちろん昔から捏造はあったが、問題は「できるかどうか」ではない。「安くできるかどうか」である。何かを捏造できる人が一万人に一人の世界と、誰でも三分で捏造できる世界では、同じ“可能”でも現実の厚みがまるで違う。嘘が手軽になるとは、嘘が増えるだけではない。嘘の生産が“工業化”されるということだ。工業化されると、質はばらついても量が暴力になる。しかもその量は、空気のように周囲へ広がり、私たちの呼吸に混ざってくる。
嘘が工業化された世界では、まず情報の地形が変わる。これまで情報は、少数の発信源から多数へ流れる川のようなイメージで語られてきた。新聞、テレビ、出版社、学術誌、行政、企業。そこから私たちへと流れてくる。流れの上流には、責任や編集や検証の仕組みがあると期待されていた。もちろん完璧ではないにせよ、「一応ここを通ったもの」という関所の感覚があった。ところが、嘘が手軽になると、情報は川ではなく霧になる。発信源が無数になり、濃淡のある粒子が、SNSのタイムラインや検索結果に浮遊する。霧の中では、遠くが見えない。手を伸ばして触れたものが本物かどうか、確かめる前に次の粒子が頬に当たる。
そして霧の世界では、真偽の問題がそのまま注意の問題になる。注意は有限だ。人間には一日二十四時間しかない。体力にも限界がある。にもかかわらず、検証は高くつく。一次ソースを当たる、複数の証言を照合する、文脈を読む、統計の読み方を理解する。これらは時間と集中力を要求する。嘘の制作コストが下がった分、検証コストとの落差が開く。すると、嘘は“勝ちやすい賭け”になる。作る側は何百本でも投げられる。見る側はそのすべてを拾えない。つまり、嘘が手軽な世界では、真実は「負けやすい形」に追い込まれる。真実の問題が、正しさではなく構造の問題になる所以である。
ここで重要なのは、私たちが嘘を見抜く主体として強くなることよりも先に、社会の情報の流通が“勝手に”そういう競技になってしまう点だ。個人が賢くなればいい、と言うのは簡単だ。だが、賢さにも持久力がある。毎日毎日、全情報を疑っていては生活が破綻する。さらに、人は疲れると判断が荒くなる。荒くなった判断は、分かりやすい物語に吸い寄せられる。怒り、恐怖、憎悪、優越感、正義感。こうした強い感情を起動する情報は、内容の真偽に関係なく拡散しやすい。嘘が手軽な世界は、感情のエンジンに燃料を投げ込み続ける世界でもある。
では、そのとき私たちは何を「真実」と呼ぶのだろう。ここで早々に結論を言う必要はない。第一章でやるべきことは、読者の足場を揺らすことだ。真実が危機にあると言うとき、多くの人は「嘘が増えたからだ」と思う。だが、核心はそこではない。嘘が増えたことより、嘘が増え続ける条件が整ったことのほうが重大なのだ。嘘の増殖条件とは何か。第一に、制作が安い。第二に、配布が安い。第三に、受け手の検証が高い。第四に、感情を刺激するものほど拡散されやすい。これらが揃うと、真偽は“市場”の中で不利になる。市場は、原理的に品質より速度を優先しがちだからだ。
速度が優先されると、真実は遅れる。真実は遅れるだけで価値を失う。速報で勝った嘘が世論を作り、後から出てくる訂正は誰の記憶にも残らない。ここで真実は、嘘に敗北したのではなく、時間に敗北する。しかも時間は、私たちの有限性そのものだ。つまり真実の危機とは、人間の有限性が露出した状態だと言える。私たちは本来、全部を確かめられない。だから信頼の近道で生きてきた。しかし嘘が手軽になると、その近道が攻撃される。信頼の近道が壊れると、社会は「全部を自力で確かめる」か「何も確かめない」か、極端な二択に追い込まれる。前者は不可能で、後者は危険だ。どちらも地獄である。
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