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上を向けば平等、下を向けばメリトクラシー。それっていいの? 哲学的な問い9

上を向けば平等、下を向けばメリトクラシー。それっていいの? 哲学的な問い9
上を向けば平等、下を向けばメリトクラシー。それっていいの? 哲学的な問い9

第一章 平等とメリトクラシーってなに?

 平等とメリトクラシーは、ふつうは反対のものとして語られる。平等はみんなを同じように扱おうとする考えであり、メリトクラシーは能力や努力に応じて差をつけようとする考えだ、と。たしかにその説明はまちがっていない。だが、それだけでは足りない。なぜなら私たちは、この二つをきれいに分けて使っているのではなく、都合に応じて持ち替えているからだ。上を見たときには平等を求め、下を見たときにはメリトを語る。その動きは、社会の制度の中にあるだけではない。私たち自身の心の中にある。

 たとえば会社で、上司の子どもがよい学校に入り、大きな企業に就職し、さらに順調に出世していく話を聞いたとする。そのとき人は、親の地位や家庭の余裕がものを言ったのではないかと疑う。そんなのは不公平だ、機会はもっと平等であるべきだと言いたくなる。ところが別の場面で、同じ職場の後輩が仕事でつまずき、評価が下がり、給料にも差がついたときには、今度は努力が足りなかったのではないか、実力が結果に出ただけではないかと言いたくなる。ここでは平等とメリトクラシーが対立しているのではない。同じ人の中で、同じ口から、場面によって使い分けられているのである。

 まず平等という言葉から考えてみたい。平等にはいくつもの意味がある。法律の前で同じように扱われることも平等だし、選挙で一人が一票を持つことも平等だ。教育の機会が開かれていることも、侮辱されずに人として扱われることも、広い意味では平等に入る。ここで大切なのは、平等とは単に全員が同じ結果になることではないという点だ。背の高さも、得意なことも、家庭の事情も違う人たちを前にして、何を同じにするのかを決めるのが平等の議論である。だから平等とは、差があるかないかの話ではない。どの差を認め、どの差は許されないと考えるかの話なのだ。

 ではメリトクラシーとはなにか。日本語では能力主義や実力主義と訳されることが多い。試験の点が高い人が上に行き、成果を出した人が多く報われる。そう聞くと、一見かなり公平に思える。家柄や血筋ではなく、本人の実力で決まるのだから、昔の身分制よりましだと感じられるからだ。だがこの考えにも、すぐに疑問が生まれる。そもそも能力とはなにか。努力とはなにか。結果が出た人だけが努力した人なのか。よい教育を受けられたこと、失敗しても立ち直れる家があったこと、健康に働ける身体があったことは、本人の手柄なのか。メリトクラシーは、家柄ではなく能力で決める仕組みのように見えて、その能力がどこから来たのかをあまり問わない。

 ここで気づきたいのは、平等とメリトクラシーの争いは、単純な善悪の争いではないということだ。平等だけを極端に押し進めれば、努力しても報われないという不満が生まれる。がんばっても差が出ないなら、なぜ苦しいことを引き受けるのかという問いが出てくる。逆にメリトクラシーだけを極端に押し進めれば、うまくいかなかった人が人格ごと低く見られやすくなる。結果が悪いのはおまえの価値が低いからだ、という空気が社会に広がる。つまり問題は、どちらが絶対に正しいかではない。私たちがどの場面で平等を持ち出し、どの場面でメリトを持ち出すのか。そして、その使い方にどんな欲望が混ざっているのかである。

 人は自分が不利なとき、不平等に敏感になる。自分より恵まれている人を見ると、そこにある偶然や特権を見つけるのがうまくなる。親が金持ちだった。よい地域に住んでいた。人に好かれる顔立ちだった。時代の波に乗れた。そうした要素は、たしかに現実の一部だ。だが人は自分が有利なとき、その逆のことをする。自分の位置を支えている偶然には目をつぶり、自分の努力や判断だけを前に出したくなる。だから平等とメリトクラシーは、しばしば社会を説明する言葉である前に、自分の立場を守る言葉になる。ここにこの問題のいやらしさがある。私たちは正義を語っているつもりで、じつはかなりの割合で自分を弁護している。

 受験を例にするとわかりやすい。ある生徒が難関大学に受かったとする。そのとき周囲は、本人の努力はもちろん、地頭のよさや家庭の支えも考えるだろう。塾に通えたこと、静かな部屋で勉強できたこと、進学を当然とする空気の中で育ったこと。そうした条件は、たしかに結果に影響する。だが受かった本人は、自分の努力を中心に物語りたくなる。毎日机に向かったのは自分だ、と。それもまた事実である。逆に落ちた生徒は、実力不足だと言われるかもしれないし、自分でもそう思うかもしれない。だがその子が家の手伝いで時間を取られていたり、失敗への恐怖で眠れなくなっていたりしたらどうだろう。ここでは、努力したかしなかったかという一語では足りない。平等もメリトも、思っているよりずっと複雑な地面の上に立っている。

 さらにやっかいなのは、メリトクラシーが単に勝者を選ぶ仕組みで終わらないことだ。この考えは、勝った人に誇りを与えると同時に、負けた人に恥を与えやすい。身分制の社会であれば、自分が低い位置にいる理由は生まれにある。もちろんそれは理不尽だが、少なくとも能力の否定とは少し違う。ところがメリトクラシーの社会では、低い位置にいることが、そのまま能力や努力の不足として読まれやすい。結果として人は、うまくいかなかったという事実以上の傷を負う。自分は劣っているのではないか。値打ちがないのではないか。そう感じさせる力が、メリトクラシーにはある。だからこの問題は、配分の問題であるだけでなく、尊厳の問題でもある。

 それでもなお、私たちはメリトクラシーを簡単には捨てられない。努力が報われてほしいという感覚は、とても自然だからだ。何もしなくても同じ結果になるなら、世界は不条理に見える。自分の工夫や忍耐が無意味だと思えば、人はかなり深い無力感に沈むだろう。だから人間社会には、ある程度は功績に応じて報いる仕組みが必要なのだと思われる。問題は、その仕組みを絶対視した瞬間に起きる。勝者は自分を過大評価し、敗者は自分を過小評価する。運や環境の力は忘れられ、結果だけが人格の証拠のように扱われる。すると社会は、報いる場である前に、値踏みする場になってしまう。

 この章で押さえておきたいのは、平等とメリトクラシーはどちらも必要であり、どちらも危ういということだ。平等がなければ、社会は露骨な序列に沈む。メリトクラシーがなければ、努力と責任の感覚が弱る。だが本当に問うべきなのは、その中間の制度設計だけではない。もっと手前にある、私たち自身の視線である。自分より上の人を語るとき、なぜ平等を言いたくなるのか。自分より下の人を語るとき、なぜメリトを言いたくなるのか。そのねじれを見つめないかぎり、平等の議論も、能力主義の議論も、どこかで自分に都合のよい道具になる。次の章では、そのねじれがどこから生まれるのかを、嫉妬、恐れ、承認欲求というもっと生々しい場所から考えていく。

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