文学・思想の一丁目一番地
文系って必要? 哲学的な問い10
第一章 文系不要ってどういうこと?
文系なんて役に立たない、と言われたとき、人は少しだけ返事に困る。心のどこかでは反論したい。文学も歴史も哲学も、まったく無意味ではないはずだと思う。けれど同時に、ではそれで飯が食えるのか、会社で何の役に立つのか、給料を上げてくれるのかと問われると、言葉が詰まる。役に立つと言いたいのに、すぐに使える道具として説明しようとすると、急に弱く見える。文系不要論は、まずこの返事に困る感覚から始まっている。
たとえば、親が子どもに進路を聞く場面を考えてみる。子どもが工学部へ行きたいと言えば、なんとなく安心される。情報系へ行きたいと言えば、これからの時代に合っていると言われる。医学、薬学、看護なら、資格や仕事が思い浮かびやすい。ところが文学部や哲学科へ行きたいと言うと、空気が少し変わる。「それで将来どうするの」と聞かれる。ここで問われているのは、学びたい気持ちそのものではない。その学びが、社会の中でどう換金されるのか、どんな職業につながるのか、どんな安全を保証してくれるのかである。
このとき文系は、最初から少し不利な場所に立たされている。なぜなら、文系の価値は、すぐに形になりにくいからである。プログラムなら動くか動かないかが見える。機械なら作れるか作れないかが見える。資格なら、その資格で就ける仕事が見える。けれど、歴史を学んで視野が広がる、文学を読んで他者の痛みを想像できる、哲学を学んで問いの立て方が変わる、と言っても、それは給料明細や採用通知のようには見えない。見えにくい価値は、見えやすい価値の前で負けやすい。
だから文系不要論は、単に文系が嫌いな人の暴言ではない。そこには、社会の不安がある。失敗できないという不安、就職でつまずきたくないという不安、学費に見合う回収がほしいという不安、AIや不況で仕事が消えるかもしれないという不安である。文系は、そうした不安の受け皿にされやすい。すぐに金にならないもの、成果が数字にしにくいもの、説明に時間がかかるものが、まとめて「役に立たない」と呼ばれる。
しかし、この「役に立たない」という言葉は、かなり乱暴である。包丁は料理に役立つ。電車は移動に役立つ。スマホは連絡や検索に役立つ。では、法律はどうか。歴史はどうか。言葉はどうか。民主主義はどうか。これらは、包丁のように手に持って使う道具ではない。けれど、それが壊れると、人間の生活そのものが壊れていく。役に立つものには、すぐに何かを処理する道具としての役立ち方と、社会が壊れないように支える土台としての役立ち方がある。
文系不要論が見落としやすいのは、この二つ目の役立ち方である。たとえば、言葉の意味が乱れた社会を考えてみる。責任という言葉が、責任を取らないために使われる。自由という言葉が、弱い人を放置するために使われる。多様性という言葉が、反対意見を黙らせるために使われる。改革という言葉が、ただの削減を飾るために使われる。こういう社会では、言葉は通じているようで通じていない。人々は同じ日本語を話しているのに、現実をつかむ力を少しずつ失っていく。
ここで文系の問題が出てくる。文系とは、人間が使う言葉、作る制度、残してきた歴史、信じている価値、語り継ぐ物語を扱う知である。それは、橋を架けたり、薬を作ったり、エンジンを設計したりする知とは違う。自然科学が、世界がどう動くかを調べる知だとすれば、文系は、その世界の中で人間が何を意味あるものとして受け止めるのかを問う知である。人間は、ただ生きているだけではない。意味をつけ、名前をつけ、正しいと思い込み、間違ったことにも慣れ、時には嘘さえ日常として受け入れる。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』には、二足す二は五という有名な言葉が出てくる。もちろん、数学的には二足す二は四である。自然科学の世界では、そこをごまかすことはできない。二足す二を五として橋を設計すれば、どこかで壊れる。薬の量を間違えれば、身体が反応する。機械の計算を間違えれば、動かない。自然は、人間の空気を読まない。
けれど人間社会では、二足す二は五だと受け入れさせられることがある。上司がそう言う。学校がそう教える。みんながそう振る舞う。逆らうと不利益を受ける。最初はおかしいと思っていた人も、そのうち「そういうものだ」と飲み込む。さらに進めば、おかしいと思う自分のほうがおかしいのではないか、と感じ始める。数学の答えは変わらない。しかし、人間の感じ方、言葉の使い方、現実の受け止め方は変えられてしまう。
ここに、文系が必要になる理由がある。文系は、二足す二が四であることを証明するためだけの知ではない。人間がなぜ、二足す二は五だと言わされるのか。なぜ、明らかにおかしいことを「そういうものだ」と受け入れてしまうのか。なぜ、疑問を持つ力が削られていくのか。なぜ、言葉が現実を照らす道具ではなく、人を従わせる道具になるのか。そういう問いを扱うのが、文系の大事な仕事である。
ただし、ここで文系を美化してはいけない。文系は必要だと言った瞬間に、文系の側が免罪されるわけではない。むしろ文系は、腐りやすい。なぜなら、自然科学のように、自然がすぐに殴ってくれるわけではないからである。間違った解釈、空虚な批評、偉そうな専門用語、内輪だけで通じる議論があっても、すぐに橋が落ちるわけではない。だから文系は、外からの批判を失うと、簡単に村になる。
文系村という言葉には、かなり嫌な響きがある。難しい言葉を知っている人が、知らない人を見下す。誰が言ったかが、何を言ったかより重くなる。専門用語が、考えるためではなく、仲間を見分ける合図になる。普通の人の違和感を、無知として片づける。こうなると、文系は人間を自由にするどころか、人間を黙らせる側に回ってしまう。文系不要論が力を持つのは、文系に対する誤解だけが原因ではない。文系自身が、不要に見える姿を見せてしまうことがあるからである。
だから、この本で考えたいのは、単純な文系擁護ではない。文系は必要か、と問うだけなら、必要ですと言って終わることもできる。しかしそれでは弱い。問うべきなのは、なぜ文系は不要に見えるのか、なぜ文系は自分の価値を説明しにくいのか、なぜ文系は閉じた村になりやすいのか、そして文系はどうすればもう一度、生活や社会や人間の現実に触れ直せるのかである。
文系不要論とは、文系への攻撃であると同時に、社会がどんな価値を信じているかを映す鏡でもある。すぐに金になるものだけが必要なのか。数字で測れるものだけが重要なのか。仕事に直結しない学びは無駄なのか。人間が言葉を失い、歴史を忘れ、問いを立てる力をなくしても、社会はうまく回るのか。こう考えると、文系不要論は、文系だけの問題ではなくなる。それは、私たちがどんな人間として生きたいのかを問う問題になる。
文系が不要なのではない。けれど、文系を不要に見せてしまう文系のあり方は、たしかに不要である。ここを分けなければならない。文系を守るためには、文系を甘やかしてはいけない。文系を批判するためには、文系の本当の役割を知らなければならない。この本は、その間の細い道を歩いていく。文系は必要かという問いは、最後には、人間は言葉と意味なしに生きられるのかという問いへ変わっていく。
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