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弱者男性論ってなにがヤバいの? 哲学的な問い11

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弱者男性論ってなにがヤバいの? 哲学的な問い11

第一章 弱者男性ってどんな人?

 朝、目が覚めた瞬間から、すでに負けているように感じる人がいる。布団の中でスマホを見る。仕事に行く人、結婚した友人、子どもの写真を載せている同級生、趣味を楽しんでいる誰かの姿が流れてくる。そこに悪意はない。だが、画面の向こうにいる人たちは、まるで自分とは別の社会に住んでいるように見える。自分は同じ年齢を生きているはずなのに、同じ時間を生きていない。そんな感覚が、胸の奥に静かに沈んでいく。

 弱者男性という言葉には、最初から妙な重さがある。弱者という言葉には、助けられるべき人、守られるべき人、配慮されるべき人という響きがある。ところが、そこに男性という言葉がついた瞬間、空気が変わる。男なのに弱者なのか。男なら自分で何とかしろ。男は社会の中で強者側ではないのか。そんな反応が先に出てくる。つまり、弱者男性とは、弱い男性のことだけではない。弱いと言った瞬間に、疑われる男性のことでもある。

 たとえば、収入が低い男性がいる。非正規で働いているかもしれない。あるいは、働くこと自体につまずいているかもしれない。体力がない。人間関係が苦手である。面接でうまく話せない。職場で怒鳴られると、頭が真っ白になる。家に帰っても、誰かが待っているわけではない。休日には予定がなく、スマホと眠気だけで一日が終わる。こうした生活は、外から見ると地味である。事件も起こらない。ドラマにもなりにくい。しかし本人にとっては、毎日少しずつ自尊心を削られる生活である。

 弱者男性を、単にモテない男性のことだと考えると、かなり大事なものを見落とす。もちろん、恋愛や結婚の問題は大きい。誰からも選ばれない。誰にも好かれない。異性から存在を意識されない。その痛みは軽くない。人間は、食べ物と寝る場所だけで生きているわけではない。誰かから必要とされること、名前を呼ばれること、自分がそこにいてよいと感じることによって、どうにか日々をつないでいる。その回路が切れていると、生活は見た目以上に寒くなる。

 けれども、弱者男性の問題を恋愛だけに閉じ込めると、すぐに話が壊れる。なぜなら、恋愛は誰かに強制できるものではないからである。誰かを好きになることは、命令では作れない。結婚も、性も、親密さも、国家や社会が配給するものではない。だから、弱者男性の苦しみをそのまま「社会が何かを与えるべきだ」という話にしてしまうと、そこで議論は危険な方向へ曲がる。苦しみは本物でも、その解決を他人の身体や感情に請求することはできない。

 ここで必要になるのは、苦しみの分解である。恋愛できない苦しみの中には、孤独がある。収入の低さがある。容姿への劣等感がある。会話の苦手さがある。家庭で愛された経験の薄さがある。学校や職場で侮られてきた記憶がある。将来への不安がある。自分は男として失敗している、という恥がある。これらが絡まり合って、弱者男性という一つの影を作っている。だから、弱者男性とは一枚の札ではない。いくつもの不足と傷が重なった状態である。

 男性には、今でも多くの見えない試験が課されている。稼げること。頼れること。堂々としていること。女性をリードできること。友人がいること。仕事を持っていること。性的に未熟ではないこと。心が折れないこと。怒られても平気な顔をすること。こうした試験は、誰かが明文化しているわけではない。だが、日常のあちこちに貼りついている。男性が弱音を吐いたとき、男性が恋愛で失敗したとき、男性が無職になったとき、男性が助けを求めたとき、その試験の存在が急に姿を現す。

 弱者男性とは、この男性性の試験に落ちた人である。ここでいう失敗は、本人だけの問題ではない。もちろん本人の選択や努力も関係する。だが、すべてを本人の責任にしてしまうと、社会の側にある残酷さが見えなくなる。足の遅い人に、なぜ一位で走れないのかと責めることはできる。しかし、そもそも全員に同じ速度を求める競技の設計そのものを問うこともできる。弱者男性論が扱うべきなのは、この二つの間にある緊張である。

 奇妙なのは、弱者男性にはしばしばマッチョイズムが求められることである。鍛えろ。稼げ。清潔感を出せ。コミュニケーション能力を上げろ。自信を持て。外に出ろ。努力しろ。これらの助言は、完全に間違っているわけではない。実際、身だしなみを整えれば印象は変わる。働けば収入は増えるかもしれない。身体を鍛えれば気分が上向くこともある。問題は、そうした助言を完遂できる人間は、そもそも弱者になりにくいということである。

 泳げない人に、泳げば向こう岸へ行けると言うことはできる。それは事実である。だが、その人がいま溺れているなら、まず必要なのは泳法の講義ではなく、浮き輪かもしれない。弱者男性に対する多くの助言も、これに似ている。強くなれば救われる。それはそうである。しかし、強くなるための体力、時間、金、心の余裕、人間関係、成功体験が足りないからこそ、弱者になっている。その人にだけ、強者になる能力を前提にした救済策を投げるのは、どこか皮肉である。

 ここで誤解してはいけないのは、弱者男性は善人である、という話ではないことだ。弱い人間が、必ず優しいわけではない。傷ついた人が、別の誰かを傷つけないとは限らない。むしろ、侮られ続けた人ほど、より弱い相手を見つけたときに攻撃することがある。孤独は人を深くすることもあるが、狭くすることもある。怒りは社会を変える力にもなるが、憎悪に落ちることもある。弱者男性論の難しさは、弱さと正しさが一致しないところにある。

 だから、弱者男性を弱者として認めることは、弱者男性の言い分を全部認めることではない。ここははっきり分けなければならない。あなたが孤独であることは問題である。あなたが貧しいことは問題である。あなたが社会から侮られてきたことは問題である。だが、だからといって、誰かがあなたを愛さなければならないわけではない。誰かがあなたの怒りを無条件に受け止めなければならないわけでもない。存在の承認と、要求の承認は違う。

 弱者男性論がこじれるのは、この区別が失われるからである。弱者男性の側は、自分の苦しみを認めてほしいと思う。しかし、その言葉が社会への恨みとして出てくることがある。すると聞き手は、その恨みを危険なものとして拒否する。拒否された側は、自分の苦しみそのものまで否定されたと感じる。こうして、苦しみを語る入口が閉じる。入口が閉じると、人はより暗い場所へ行く。誰にも聞かれなかった言葉は、やがて誰かを刺す言葉になる。

 弱者男性という存在を考えるとき、まず必要なのは、好きになることでも、許すことでもない。正確に見ることである。彼らは、単なる被害者ではない。単なる加害者でもない。単なる怠け者でもない。単なる恋愛敗者でもない。男性であるために強者側に置かれながら、個人としては弱い場所に落ちている人たちである。社会からは男として強さを求められ、現実にはその強さを持てず、弱さを訴えれば男であることを理由に疑われる。そこに、弱者男性という言葉のややこしさがある。

 この章でつかんでおきたいのは、弱者男性とは「弱い男性」では終わらない概念だということである。それは、弱いにもかかわらず、弱者として認められにくい男性である。助けを求めると、まず資格を問われる男性である。苦しんでいるのに、苦しみの語り方を間違えると、すぐに危険な存在として扱われる男性である。そして、その扱われ方に傷つき、ますます社会への不信を深めていく男性である。

 弱者男性を救うべきかどうかは、簡単には決められない。何を救うのか、どこまで救うのか、誰が負担するのかという問題があるからである。しかし、少なくとも弱者として認めるぐらいはしてもいいのではないか。認めるとは、甘やかすことではない。認めるとは、そこに苦しみがあると数えることである。数えられない苦しみは、存在しないものとして扱われる。そして、存在しないものとして扱われた苦しみは、いつか別の形で社会に戻ってくる。弱者男性論の入り口は、まさにこの不気味な戻り方をどう考えるかにある。

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