文学・思想の一丁目一番地
解放された女性って本当に解放されているの? 哲学的な問い13
第一章 解放された女性ってどんな人?
解放された女性とは、社会一般の意味では、まず「自分で自分の人生を決める女性」として思い描かれる。親に決められた結婚をするのではなく、夫に生活のすべてを預けるのでもなく、世間の期待だけで生きるのでもない。仕事を持ち、収入を得て、自分の意見を言い、恋愛や結婚についても自分の判断を持つ。そういう女性が、現代社会では「解放された女性」と呼ばれやすい。
この像は、たしかに歴史的には大きな前進の上にある。かつて女性は、家の中にいるもの、夫を支えるもの、子を産み育てるものとして語られることが多かった。もちろん、現実の女性たちがいつも従順だったわけではない。だが、社会の建前としては、女性の人生は家庭、結婚、母性と強く結びつけられていた。そこから見れば、働く女性、学ぶ女性、政治について語る女性、結婚しないことを選ぶ女性は、古い枠から出た存在に見える。
たとえば、都市で一人暮らしをし、会社で働き、休日には友人と出かけ、自分の好きな服を着て、恋愛についても自分の距離感を持っている女性がいる。彼女は、昔ながらの意味ではかなり自由に見える。誰かに養われるために結婚を急ぐ必要もなく、家の名誉のために黙っている必要もない。何を食べるか、どこへ行くか、誰と会うか、どの仕事を選ぶかを、自分の生活の中で決めている。
だが、このときすでに問題が生まれる。解放された女性とは、本当にただ自由な女性なのだろうか。それとも「自由そうに見える女性」という、別の理想像なのだろうか。社会が思い描く解放された女性には、かなり細かい条件がついている。自立していること、明るいこと、仕事ができること、古い価値観に縛られないこと、恋愛に依存しないこと、性的にも主体的であること、外見にも気を配っていること。これらが積み重なると、自由というより、新しい優等生像に近づいていく。
ここに、この本の問いの入口がある。女性は「女らしくあれ」という古い命令から解放されたように見える。けれど、今度は「解放された女性らしくあれ」という新しい命令を受けていないか。家庭的で控えめであることを求められた時代から、仕事ができて自立していて、自分らしく輝くことを求められる時代へ移っただけではないのか。命令の中身は変わった。だが「こういう女性でなければならない」という形は、まだ残っている。
たとえば、昔の女性雑誌が「よい妻」「よい母」「愛される女性」を理想として掲げていたとする。現代のメディアは、それを古くさいものとして退けるかもしれない。代わりに出てくるのは「自分らしく働く女性」「年齢に縛られない女性」「恋愛に振り回されない女性」「ひとり時間を楽しむ女性」である。言葉だけを見ると、たしかに進歩している。だが、そのどれにもなれない人は、やはりどこかで遅れているように見られてしまう。
この構造は、制服のたとえで考えるとわかりやすい。かつて女性は、家庭的で控えめな制服を着せられていた。現代の女性は、その制服を脱いだように見える。ところが、制服を脱いだあとに「個性的で、洗練されていて、自立した私服で来なさい」と言われるなら、それは本当に自由だろうか。制服ではなくなっただけで、今度は私服のセンスを審査されている。自由な服を着ているはずなのに、自由らしく見える服を選ばされている。
この「自由らしさ」が、現代の女性を複雑に縛る。古い社会では、女性に対する要求は比較的見えやすかった。女は家庭に入れ、夫を立てろ、母になれ、目立つな、という命令はあからさまだった。しかし現代の要求は、もっとやわらかい顔をしている。好きなことをしよう、自分を大切にしよう、キャリアをあきらめないで、年齢に負けないで、自分の身体を愛そう。どれも励ましに聞こえる。だからこそ、そこに含まれる圧力が見えにくい。
もちろん、自立することや、自分を大切にすることが悪いわけではない。女性が収入を得ること、学ぶこと、性について自分の意思を持つこと、暴力や支配から離れることは、きわめて重要である。そこを否定してしまえば、女性が実際に戦ってきた歴史を軽んじることになる。問題は、自由そのものではない。問題は、自由が一つの正解の姿になったとき、その正解から外れた人を裁きはじめることである。
たとえば、経済的に自立している女性は自由だと言われる。しかし、病気、介護、育児、地域の事情、能力の差、運の悪さによって、思うように働けない人もいる。そうした人に向かって「自立していないから自由ではない」と言ってしまえば、解放の言葉は、弱い立場の人をさらに責める言葉になる。自由は本来、人を息苦しさから出すためのものだったはずなのに、今度は自由でない人を責める物差しになってしまう。
恋愛でも同じことが起こる。解放された女性は、恋愛に依存しない人として描かれることが多い。相手に振り回されず、自分の時間を持ち、別れるべきときには別れ、結婚だけを人生の目的にしない。これはたしかに、古い恋愛観からの解放である。だが一方で、寂しいと言えない、傷ついたと言えない、相手に愛されたいと願うことを恥じる、という新しい不自由も生まれる。依存しないことが立派になりすぎると、人に頼ることそのものが敗北のように感じられる。
性的な自由についても、似たねじれがある。かつて女性の性は、抑圧され、管理され、沈黙させられてきた。だから、女性が自分の欲望を語り、自分の身体について決めることは、重要な解放である。けれど、現代では逆に「性的に開かれていること」が自由の証のように扱われる場合がある。すると、慎重であること、拒むこと、興味を持たないことまで、古い、つまらない、主体性がないと見なされかねない。自由とは、開く自由だけではなく、閉じる自由でもある。
社会一般が思い描く解放された女性は、しばしば強い。仕事で成果を出し、言いたいことを言い、嫌なものは嫌と言い、恋愛でも自分を失わない。映画やドラマでも、そうした女性は魅力的に描かれる。会議室で堂々と発言し、別れ話でも泣き崩れず、ひとりでバーに入り、朝にはきちんと仕事へ向かう。そこには、古い女性像にはなかった力がある。
しかし、強い女性像は、弱さを隠すことを要求する場合がある。強くあれ、傷つくな、泣くな、依存するな、被害者ぶるな。こうした言葉は、女性を励ましているようでいて、苦しみを語る場所を奪うことがある。人間は、いつも主体的で、いつも前向きで、いつも自立していられるわけではない。にもかかわらず、解放された女性像が強さだけを称えるなら、弱い日は自由の外に追い出されてしまう。
ここで重要なのは、解放された女性という像が、単なる現実の描写ではないということである。それは、社会が望む理想像でもある。企業は、自由で活動的な女性に商品を売る。広告は、自分らしく輝く女性を描く。SNSは、仕事も趣味も美容も恋愛も充実した女性を目立たせる。そこでは、自由は生き方であると同時に、見せ方でもある。自由に生きることと、自由に見えることが、少しずつ混ざっていく。
たとえば、仕事帰りにジムへ行き、健康的な食事を作り、休日には美術館へ行き、恋人とは対等な関係を築き、政治や社会問題にも意見を持つ女性がいる。これはすばらしい生活かもしれない。けれど、それが「現代女性の標準」として掲げられた瞬間、多くの人は置いていかれる。疲れてコンビニ弁当を食べる日もある。誰かに依存したい夜もある。恋愛でみっともなく泣くこともある。そういう日々を含めて人生であるはずなのに、自由な女性像は、しばしばその不格好さを映さない。
だから、第一章で確認すべきことは一つである。解放された女性とは、社会一般には、自立し、主体的で、古い女らしさに縛られない女性として理解されている。しかし、その像そのものが、また別の規範になりうる。女性は、女らしさから逃げたあとに、今度は自由らしさへ追い込まれることがある。
この問いは、女性だけの問題ではない。現代社会そのものが、人に「自分らしくあれ」と命じている。自分で選べ、自分で稼げ、自分を磨け、自分を肯定しろ。その命令は、男性にも向かう。だが、女性の場合、それは古い性別役割と重なって、より複雑な圧力になる。良い女であれという命令と、自由な女であれという命令が、同時に押し寄せるからである。
解放された女性とは、どんな人なのか。社会一般の答えは、自立して、主体的で、自分らしく生きる人である。だが、哲学的に問うなら、そこで止まってはいけない。本当に問うべきなのは、その「自分らしさ」は誰によって作られたのか、その「自由」は誰にとって都合がいいのか、その「解放された女性」という像から降りる自由はあるのか、ということである。
自由は、ひとつの正解像になった瞬間に、人を縛りはじめる。解放された女性という言葉の中には、たしかに希望がある。けれど同時に、見えにくい命令もある。本書がこれから追いかけるのは、その命令の形である。女らしさという古い檻だけでなく、自由らしさという新しい檻を見つめること。そこから、解放という言葉の本当の難しさが見えてくる。
哲学的な問い一覧に戻る
うしPのページに戻る