文学・思想の一丁目一番地
第42代アメリカ合衆国皇帝は黒髪ロングの日本人美女だったの? 哲学的な問い14
第一章 そもそもアメリカ合衆国皇帝って存在するの?
「第42代アメリカ合衆国皇帝は黒髪ロングの日本人美女だったのか」と問われると、最初に反応したくなるのは、黒髪ロングだったのか、日本人だったのか、美女だったのか、という部分である。問いの後半が妙に具体的だからだ。髪の長さ、髪の色、国籍、美しさという属性が並ぶと、そこには一人の人物がいるように感じられる。だが、分析哲学的に考えるなら、まず見るべき場所はそこではない。最初に調べるべきなのは、「第42代アメリカ合衆国皇帝」という主語そのものである。
この問いの厄介さは、文法としては読めてしまうところにある。「第42代アメリカ合衆国皇帝は」という言い方は、日本語として破綻していない。そこに「黒髪ロングの日本人美女だったのか」と続けば、何か歴史上の隠された人物について語っているようにも見える。けれど、文法的に読めることと、現実に対応する対象があることは違う。ここを分けるところから、哲学の問いが始まる。
たとえば「現在のフランス王は禿げている」という有名な例がある。フランスに現在王がいないとすれば、この文に対して単純に「禿げている」とも「禿げていない」とも言いにくい。問題は髪の量ではなく、「現在のフランス王」という対象がいるのかどうかにある。同じように、「第42代アメリカ合衆国皇帝は黒髪ロングだったのか」という問いも、髪型に入る前に、「第42代アメリカ合衆国皇帝」という対象が存在するのかを確認しなければならない。
アメリカ合衆国には、大統領という制度はある。第42代大統領という言い方もできる。だが、公的な意味でのアメリカ合衆国皇帝という制度はない。アメリカは君主制の国ではなく、王や皇帝のような世襲的な君主を国家の頂点に置く体制ではない。だから「第42代アメリカ合衆国皇帝」という言葉は、制度に支えられた肩書きとしては成立しない。ここで問われているのは、歴史上の人物の特徴ではなく、そもそもその人物を数えるための制度があるのかという問題である。
「存在する」と一口に言っても、その中身は一つではない。石や机のように物理的に存在するものがある。会社や学校のように、建物や人の集まりとして存在するものがある。大統領、裁判官、社長、町内会長のように、制度の中で存在する役職もある。さらに、小説の登場人物や都市伝説の怪人のように、物語の中で存在するものもある。アメリカ合衆国皇帝という言葉を考えるとき、この区別を曖昧にすると、一気に話が混乱する。
制度的な存在とは、人間の取り決めによって支えられている存在である。紙幣はただの紙ではない。法律、中央銀行、社会的な信用、支払いの慣習があるから紙幣として働く。免許証もただのカードではない。発行する機関、資格の条件、確認する制度があるから意味を持つ。官職も同じである。大統領や裁判官は、本人がそう名乗るだけで成立するものではない。選挙、任命、法律、手続き、記録、周囲の承認が重なって、はじめて制度上の役職になる。
ここで重要なのは、自称と制度的承認の違いである。「私は皇帝である」と言うことはできる。紙に「皇帝」と書いて机に置くこともできる。家族や友人が冗談としてそう呼ぶこともできる。しかし、それだけでは国家の制度上の皇帝にはならない。子どもが段ボールで王冠を作り、「今日から王様だ」と言ったとき、その遊びの世界では王様かもしれない。だが、その子が税金を集めたり、法律を出したり、国の元首として扱われたりするわけではない。
分析哲学の強みは、こうした言葉の働きを細かく分けて見られるところにある。「皇帝」という語には意味がある。多くの人は、皇帝と聞けば、帝国、王冠、宮殿、権力、儀式、軍隊、歴史といったものを思い浮かべる。だから「アメリカ合衆国皇帝」という表現も、完全に無意味な音の並びではない。だが、意味があることと、その言葉が現実の対象を指すことは違う。地図にない駅名でも、駅名らしく見える名前を作ることはできる。しかし、駅名らしく見えることは、その駅が存在することを証明しない。
「第42代」という数字も、存在感を強める働きをしている。第42代と言われると、そこには第1代から第41代までの連なりがあったように感じられる。数字は、ただの記号でありながら、歴史の厚みを演出する。空っぽの本棚に「第42巻」と書かれた札を置けば、どこかに第1巻から第41巻までがあるような気がする。しかし実際には、札が一枚あるだけで、過去の巻が存在することにはならない。代数も同じである。数える対象と数える規則がなければ、第42代という言葉は、歴史ではなく雰囲気になる。
この問いの後半にある「黒髪ロングの日本人美女」は、さらに読者の想像力を刺激する。皇帝という権威の言葉に、黒髪ロングという視覚的な情報が重なり、日本人という国籍らしき情報が重なり、美女という評価が重なる。すると、存在しないかもしれない人物に、顔や姿が与えられていく。霧の中に目と口を描くと、ただの霧が人の顔に見えるようなものだ。属性が増えるほど、対象があるように感じられる。
しかし、属性は対象の上に載るものである。机があるから、その机が白いとか重いとか古いとか言える。人物がいるから、その人物が黒髪だとか日本人だとか美しいとか言える。対象がない場合、属性だけをどれほど詳しく語っても、それは空中に貼られたラベルのようなものになる。「透明な城の三階にある赤い扉」と言われれば、赤い扉を想像できるかもしれない。だが、その城が存在しないなら、扉の色を確認する段階には進めない。
ここで、この問いは単なる間違いではなく、良い教材になる。なぜなら、人間はしばしば、主語の成立を確かめる前に、述語の派手さへ引き寄せられるからである。「闇の支配者は誰なのか」「本当の初代指導者は隠されているのか」「公式には消された王家の末裔はどこにいるのか」といった文も、同じ仕組みを持つ。まず疑うべきなのは、支配者の性格でも、末裔の外見でもない。その肩書きが何を指しているのか、どの制度や証拠に支えられているのかである。
もちろん、制度として存在しないものが、まったく意味を持たないわけではない。自称皇帝、冗談の皇帝、都市伝説としての皇帝、小説の中の皇帝は、それぞれ別の仕方で存在しうる。物語の中の皇帝は、現実の官職ではないが、読者の想像の中では働く。冗談としての皇帝は、法律を動かさないが、場の空気を動かす。都市伝説としての皇帝は、公文書にはいなくても、人々の記憶や語りの中で生きることがある。問題は、それらを一つの「存在」として混ぜてしまうことにある。
したがって、「そもそもアメリカ合衆国皇帝って存在するの?」という第一章の問いは、歴史の確認であると同時に、言葉の足場を確認する問いでもある。物理的にいるのか。制度上いるのか。自称としているのか。物語としているのか。冗談としているのか。これらを分けずに「いる」や「いない」とだけ言うと、議論はすぐに濁る。分析哲学は、その濁りを嫌う。大きな答えを急ぐ前に、言葉の置き場所を確かめる。
結論は、まず明快である。公的な制度としての第42代アメリカ合衆国皇帝は存在しない。だから、その人物が黒髪ロングの日本人美女だったかどうかは、事実確認の問いとしては成立しない。だが、そこで終わらせる必要はない。この奇妙な命題は、言葉がどのように対象を作ったふりをするのか、数字がどのように歴史の厚みを演出するのか、属性がどのように存在感を生むのかを教えてくれる。
この章で押さえるべきことは一つである。属性を疑う前に、主語を疑うこと。髪型を問う前に、頭があるかを問うこと。美人かどうかを問う前に、その人物がどの意味で存在しているのかを問うこと。ここから、この本の思考は始まる。存在しない皇帝の髪型をめぐる問いは、ふざけた問いに見える。しかし、それを丁寧に分解すると、言葉、制度、想像、証拠、物語の関係を見抜くための、かなり強力な哲学の入口になる。
哲学的な問い一覧に戻る
うしPのページに戻る