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もし片思いが愛じゃないなら、この眠れない夜はなに? 哲学的な問い16
第一章 片思いする人ってどんな人?
片思いする人とは、まだ恋人を持っていない人ではない。まだ関係を作れていない人でもない。むしろ、関係が始まる前に、すでに自分の世界だけが変わってしまった人である。相手は何も約束していない。相手は特別な言葉をかけたわけでもない。けれど、その人の存在が、朝の目覚め方、服の選び方、道の歩き方、スマホを見る回数まで変えてしまう。外から見れば、何も起きていない。しかし本人の内側では、すでに事件が起きている。
片思いがややこしいのは、そこに「現実」と「まだ現実ではないもの」が混ざっているからである。相手がそこにいることは現実である。相手の声を聞いたこと、笑った顔を見たこと、短い会話をしたことも現実である。けれど、その人と自分のあいだに特別な関係があるという感覚は、まだ現実ではない。片思いする人は、この二つのあいだに立っている。たしかに何かは起きている。だが、何が起きているのかを他人に説明しようとすると、急に頼りなくなる。
たとえば、職場や学校に、少しだけ気になる人がいるとする。その人が何気なく「おはよう」と言っただけで、その日は少し軽くなる。反対に、こちらを見ずに通り過ぎただけで、妙に胸が重くなる。ここで重要なのは、相手が特別な行為をしたとは限らないという点である。相手はいつも通りに挨拶しただけかもしれない。あるいは、ただ急いでいただけかもしれない。それなのに、片思いする人の内側では、その小さな出来事が意味を持ってしまう。
片思いする人は、相手そのものを見ているようで、実は相手のまわりに発生した意味を見ている。相手の言葉、表情、沈黙、返信の速度、目線の動きが、ただの出来事ではなくなる。そこに好意の兆しを探し、拒絶の気配を読み取り、まだ存在しない未来を想像する。これは単なる勘違いとは言い切れない。人間はいつも、相手の言葉をそのまま受け取っているわけではないからである。誰かを好きになるとは、相手のすべてが意味を帯びて見えはじめることでもある。
しかし、この意味の発生は危険でもある。相手は何も言っていないのに、そこに意味を盛ってしまうからである。返信が遅いのは嫌われたからだと思う。親切にされたのは脈があるからだと思う。目が合ったのは何かの合図だと思う。もちろん、そうである場合もある。しかし、そうではない場合もある。片思いする人は、この不確かさの中で揺れる。確かめたい。しかし確かめるのが怖い。近づきたい。しかし近づけば壊れるかもしれない。だから、何も起きていない時間が、かえって濃くなる。
普通、片思いは恋愛経験に入らないとされる。付き合ったわけではない。告白したわけでもない。手をつないだわけでも、別れたわけでもない。社会が恋愛経験として数えるのは、たいてい外側から見える関係である。恋人がいた、交際した、失恋した、結婚した、離婚した。そういう形になった出来事だけが、経験として認められやすい。だが、片思いは形にならない。形にならないから、他人から見れば「何もなかったこと」にされる。
けれど、本人にとっては何もなかったわけではない。むしろ、何もなかったからこそ、心の中で何度も何度も起き続ける。会話が少なければ、少ない会話を何度も思い出す。相手の情報が少なければ、少ない情報から相手像を組み立てる。関係が進まないからこそ、想像だけが進む。片思いする人は、現実の不足を想像で補う。その想像は甘いこともあるが、残酷なこともある。うまくいく未来を夢見る一方で、拒絶される場面も先回りして想像してしまう。
ここに、片思いの独特な苦しさがある。片思いは、まだ失恋ではない。だが、失恋の予感だけは何度も経験する。まだ拒絶されていない。だが、拒絶されるかもしれないという可能性が、深夜に何度も胸を刺す。まだ関係は壊れていない。そもそも壊れるほどの関係がない。それなのに、何かを失う恐怖だけはある。この状態は、外から見ると奇妙である。持っていないものを失うことはできないはずだからである。だが、片思いする人は、まだ手に入れていない未来を、すでに失うものとして感じている。
片思いする人は、相手を求めているだけではない。相手に選ばれる自分を求めている。だから苦しい。単にその人と話したいだけなら、機会を作ればいい。単にその人を眺めていたいだけなら、遠くから見ていればいい。しかし恋愛的な片思いでは、それでは足りない。相手の世界の中で、自分が特別な位置を占めたい。多くの人の一人ではなく、代わりのきかない誰かになりたい。この欲望があるから、片思いは単なる好奇心や憧れとは違ってくる。
たとえば、尊敬する作家や芸能人に憧れることがある。その人の言葉を読み、写真を見て、生活の支えにすることもある。だが、それが恋愛的な片思いと同じとは限らない。恋愛的な片思いでは、相手がこちらを見返す可能性が問題になる。見返してほしい。気づいてほしい。選んでほしい。ここには、相手の存在だけでなく、自分の価値が賭けられている。だから眠れない夜が生まれる。相手に選ばれないかもしれないという恐怖が、自分には選ばれる価値がないのではないか、という問いに変わってしまう。
片思いする人は、しばしば相手を見ているようで、自分自身を見ている。相手が好きなのだが、その好きの中には、自分の欠けているもの、自分がなりたいもの、自分が救われたいものが混ざっている。明るい人を好きになるのは、自分の暗さから救われたいからかもしれない。賢い人を好きになるのは、その人に認められることで、自分の価値を確かめたいからかもしれない。やさしい人を好きになるのは、傷ついた自分を受け止めてほしいからかもしれない。もちろん、それだけではない。だが、片思いにはいつも、相手への関心と自分への関心が絡み合っている。
だから片思いは美しくもあり、危うくもある。美しいのは、自分の外にいる誰かによって、世界が新しく見えるからである。昨日までただの道だった場所が、その人に会えるかもしれない道になる。何でもない言葉が、何度も思い出される言葉になる。自分の生活が、自分一人のものではなくなる。これは人間にとって大きな出来事である。他者が世界に色をつけるという経験だからである。
危ういのは、その色が相手自身を塗りつぶしてしまうことがあるからである。片思いする人は、相手を理想化しやすい。相手の欠点を見落とし、都合の悪い沈黙を解釈し直し、少しの親切を特別な好意として受け取りたくなる。すると、現実のその人ではなく、自分の中に作ったその人を好きになってしまう。これは片思いの大きな落とし穴である。相手を大事に思っているつもりで、実は相手を自分の物語の登場人物にしているだけかもしれない。
では、片思いする人は未熟なのだろうか。そう言い切るのは早い。たしかに片思いには未熟さが含まれる。自分の欲望を相手の都合より大きくしてしまうことがある。相手の自由を認められず、自分の苦しさばかりを中心に置いてしまうこともある。しかし、未熟さが含まれるから価値がないわけではない。むしろ、片思いは人間の未熟さがもっとも見えやすくなる場所である。自分がどれほど選ばれたがっているか、どれほど拒絶を恐れているか、どれほど相手を都合よく見たいかが、そこでは隠せなくなる。
片思いする人とは、愛を知っている人ではなく、愛の手前で立ち止まっている人である。相手を欲しがっている。相手に認められたがっている。相手を理想化している。けれど同時に、相手が自分の思い通りにならない他者であることにも触れている。この矛盾が、片思いをただの妄想から切り離している。相手は自分の中にいるだけではない。現実に存在し、別の生活を持ち、別の欲望を持ち、拒絶する自由を持っている。その事実があるから、片思いは甘いだけでは済まない。
結局、片思いする人とは、まだ関係を持っていないのに、すでに他者によって変えられてしまった人である。その変化は、恋愛経験として認められないかもしれない。けれど、愛の問題を考える入口としては、十分すぎるほど濃い。なぜなら、そこには愛のほとんどすべての要素が未完成のまま含まれているからである。欲望、理想化、承認、拒絶の恐怖、相手の自由、自分の未熟さ、そして、それでもその人を考えてしまう夜。片思いする人とは、愛をまだ所有していないのに、愛の問いだけを先に背負ってしまった人なのである。
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