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クソみたいな言論を守らなければならないのはなぜ? 哲学的な問い17

クソみたいな言論を守らなければならないのはなぜ? 哲学的な問い17
クソみたいな言論を守らなければならないのはなぜ? 哲学的な問い17

第一章 クソみたいな言論は守らなくていいよね?

 クソみたいな言論は、守らなくていい。そう言いたくなる瞬間がある。人を見下す言葉、弱っている人を笑う言葉、何かを知ったつもりで他人を裁く言葉、被害者の痛みを娯楽に変える言葉。そんなものを見せられたとき、自由という言葉は急に白々しくなる。なぜ、こんな発言まで守らなければならないのか。なぜ、黙らせてはいけないのか。まともな社会なら、もっと早く消してしまえばいいのではないか。そう感じること自体は、少しも不自然ではない。

 たとえば、災害が起きた直後に、被災した人々をあざ笑う投稿が流れてくる。あるいは、病気になった人に向かって、自己責任だと言い放つ者がいる。さらに、特定の国籍や出自を持つ人々を、まとめて社会の敵であるかのように語る言葉がある。こうした言葉に触れたとき、まず湧いてくるのは議論ではない。嫌悪であり、怒りであり、こんなものを許してはいけないという感覚である。表現の自由を語るとき、この最初の感覚をなかったことにしてはいけない。もしここを飛ばしてしまうと、自由の議論は、ただ冷たい理屈に見えてしまう。

 しかし、ここで一つ問いをずらす必要がある。問題は「その発言が好きか嫌いか」だけではない。問題は「その発言を消す権限を、誰に渡すのか」である。クソみたいな言論を守るとは、その言論を立派だと認めることではない。称賛することでも、感動することでも、反論してはいけないという意味でもない。むしろ、その言論を徹底的に批判してよい。軽蔑してよい。読む価値がないと言ってよい。けれども、禁止するとなると、話の性質が変わる。そこには、社会の中で何を言ってよいかを決める権力が生まれる。

 この違いは、とても重要である。嫌うこと、批判すること、無視すること、反論すること、通報すること、法的に禁止することは、すべて別の行為である。ところが現実の議論では、それらが一つの怒りにまとめられやすい。「こんな発言は許せない」と思った瞬間に、「だから消すべきだ」と結論が飛んでしまう。だが、その途中にはいくつもの段差がある。不快なのか、侮辱なのか、嘘なのか、脅迫なのか、暴力への扇動なのか。それによって、必要な対応は変わる。言論の自由を考える第一歩は、怒りを捨てることではなく、怒りの中身を分けることである。

 ここで、消しゴムのたとえを考えるとよい。間違った答えを消すために、消しゴムは便利である。汚れた線を消し、書き直す余地を作る。だが、消しゴムを持つ者が、いつも正しいとは限らない。気に入らない答えまで消すかもしれない。見たくない問いまで消すかもしれない。まだ答えが定まっていない途中の線まで、汚いからという理由で消すかもしれない。言論を消す権力も、これに似ている。クソみたいな発言を消すために渡した力が、次には政権批判を消し、企業告発を消し、少数派の訴えを消すかもしれない。

 もちろん、すべての発言を野放しにせよ、という話ではない。殺害予告は意見ではない。特定の人物に恐怖を与える脅迫は、自由な討論の一部ではない。根拠のない噂で私人の生活を壊す行為も、ただの言論として片づけられない。暴力を具体的に呼びかける扇動も、単なる思想表明とは違う。だから、言論の自由を語ることは、何でも許すことではない。むしろ、何がただ不快なだけで、何が現実の危険に近づいているのかを、慎重に見分ける作業である。

 不快な発言を見たとき、人はすぐに「こんなものに価値はない」と思う。たしかに、多くの場合、本当に価値はないかもしれない。だが、表現の自由は、価値ある発言だけに与えられる賞ではない。正しい人、品のある人、深い人だけが使える特権でもない。むしろ、間違える人間たちが一緒に生きるための、安全装置である。人間は間違える。多数派も間違える。善意の人も間違える。怒っている人も、傷ついている人も、正義を語る人も間違える。だからこそ、言論を制限する仕組みは、慎重に作らなければならない。

 たとえば、ある会社で不正が行われているとする。社員の一人が、それを告発しようとする。しかし会社側は、その発言を「会社への誹謗中傷」「秩序を乱す言動」「関係者を傷つける発言」と呼ぶかもしれない。言葉だけを見ると、どれももっともらしい。だが、その発言が本当に社会に害を与えるのか、それとも権力者に都合が悪いだけなのかは、簡単には決められない。もし「不快に感じた人がいるから消せる」という基準を作れば、不正を告発する言葉ほど、まず消されることになる。

 政治の場でも同じである。権力者に対する強い批判は、しばしば乱暴であり、不快であり、失礼である。風刺は人を怒らせる。抗議は秩序を乱す。社会運動は、平穏な日常にひびを入れる。けれども、そうした騒がしさの中からしか見えてこない問題もある。きれいで礼儀正しい言葉だけを公共空間に残すと、社会は上品になるかもしれない。しかし、その上品さは、黙らされた人々の沈黙によって保たれているだけかもしれない。

 ここで大切なのは、クソみたいな言論と、危険な言論を混同しないことである。クソみたいな言論は、くだらない。醜い。読むと気分が悪くなる。だが、それだけでは、ただちに禁止の理由にはならない。一方で、危険な言論は、人の安全や生活を具体的に脅かす。誰かを襲えと呼びかける。住所をさらす。嘘を広めて職場や家庭を壊す。こうした場合には、自由の名で放置してよいとは言えない。つまり必要なのは、自由か規制かという単純な二択ではなく、言葉の働きを見極める目である。

 言論の自由を守るとは、発言者を王様にすることではない。発言した者は、批判される。反論される。信用を失うこともある。くだらないことを言えば、くだらないと言われる。差別的なことを言えば、差別的だと批判される。表現の自由は、批判されない権利ではない。むしろ、言う自由と批判する自由は、同じ場所で生きている。誰かの発言を法で消さないことは、その発言を社会が受け入れたという意味ではない。

 この点を間違えると、表現の自由はすぐに幼稚な主張になる。「何を言っても自由だろう」と言う人は、しばしば「だから批判するな」と言いたがる。しかし、それは自由ではなく、甘えである。自由な言論空間では、発言は外に出た瞬間、他人の判断にさらされる。反論、嘲笑、検証、拒絶、沈黙。そうした反応もまた、表現の一部である。自由とは、自分だけが安全な場所から好き勝手に言える状態ではない。互いに言葉を出し、互いに傷つき、互いに修正を迫られる空間である。

 それでもなお、クソみたいな言論を守る必要があるのは、社会が怒りのままに消すことを覚えると、消す対象が広がっていくからである。最初は、誰が見てもひどい発言だけを消すつもりだった。次に、強すぎる批判が消える。その次に、不穏な問いが消える。さらに、まだ十分に説明されていない違和感が消える。最後には、社会にとって本当に必要だった言葉まで、空気を乱すものとして消される。自由は、すばらしい言葉のためだけにあるのではない。まだ価値が分からない言葉を、早すぎる判断から守るためにもある。

 もちろん、この考え方には痛みがある。自由を守る社会では、見たくない言葉が見える。聞きたくない意見が聞こえる。くだらない人間が、くだらないことを言う。そのたびに、こんな自由に意味があるのかと感じる。だが、すべての嫌な言葉を見えなくした社会は、本当に成熟した社会なのだろうか。むしろそれは、問題がなくなった社会ではなく、問題が見えなくなった社会かもしれない。言葉が消えても、偏見や憎しみや無知が消えるとは限らない。それらは地下に潜り、別の形で残る。

 だから、第一の答えはこうなる。クソみたいな言論を守るとは、クソみたいな言論を愛することではない。それを正しいと認めることでもない。それを批判してはいけないという意味でもない。守っているのは、その言論の中身ではなく、言論を消す力が簡単に使われない社会のほうである。嫌悪すべき発言はある。反論すべき発言もある。責任を問うべき発言もある。だが、それらを一つずつ分けて考える前に、ただ「嫌だから消せ」と言ってしまうなら、その社会は自由を守っているのではなく、怒りに消しゴムを渡しているだけである。

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