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奴隷を作りたいならストア哲学を奨励すべき? 哲学的な問い18
第一章 ストイックな人間は良い奴隷として高く売れそうな件
ストイックな人間は、良い奴隷として高く売れそうである。これはもちろん、奴隷制を肯定するための言葉ではない。むしろ逆である。なぜ、苦痛に耐え、不満を言わず、自分の感情を管理できる人間が、支配する側にとってこれほど都合がよく見えるのか。その嫌な感じを、まず正面から見るための言葉である。美徳として語られる忍耐は、見る角度を変えると、支配される者に求められる性能にもなる。
たとえば、ある人間が朝から晩まで働かされ、理不尽な命令にも反抗せず、少ない報酬でも文句を言わず、怒りも悲しみも自分の未熟さとして処理するとする。その人間は、道徳的には立派に見えるかもしれない。だが雇う側から見れば、これほど扱いやすい存在はない。壊れにくく、騒がず、管理コストが低く、自分から自分を整えてくれるからである。ここで美徳は、いつの間にか商品価値に変わる。
古代の奴隷市場で、買い手は何を求めただろうか。腕力のある者、技能のある者、読み書きのできる者、家の中で問題を起こさない者、主人に逆らわない者。そこに、ストイックな性格が加わったらどうか。殴られても取り乱さず、侮辱されても黙って働き、飢えや疲労を修行のように受け入れる。そんな人間は、主人にとって高価な財産になるだろう。恐ろしいのは、そこにある性質の多くが、現代では自己管理能力として褒められることである。
もちろん、ストア哲学はそんな目的のために生まれたわけではない。ストア派が語ったのは、外部の出来事に振り回されず、自分の判断を守るための知恵だった。病気、貧困、追放、侮辱、死といった避けがたいものに対して、魂まで差し出さないための技術だった。だから本来のストア哲学には、支配に屈しないための力がある。問題は、その力が切り取られ、支配に都合のよい形で使われる時である。
ここに、ストイックさの二重性がある。自分の怒りに飲み込まれないことは、自由の条件になりうる。だが、不当な扱いに怒らないよう訓練されるなら、それは服従の条件になる。苦痛に耐える力は、人間を強くすることがある。だが、苦痛を与える側がその力を要求するなら、それは搾取を長持ちさせる潤滑油になる。包丁が料理にも暴力にも使えるように、ストイックさも、誰が、何のために求めるかで意味が変わる。
現代の職場にも、この構造は残っている。クレーム対応の担当者は、客から怒鳴られても笑顔を保つよう求められる。介護職や看護職は、身体も心も疲れていても、相手の不安を受け止めるよう求められる。会社員は、上司の理不尽を成長の機会として処理するよう求められる。フリーランスは、低単価も不安定さも、自分の努力不足として引き受けがちになる。そこでは、怒らないこと、折れないこと、耐え続けることが、労働力の一部になる。
ここで重要なのは、怒ればよいという単純な話ではない。すぐに怒鳴り返す人間が自由なのではないし、何でも被害として語れば尊厳が守られるわけでもない。むしろ、怒りに振り回されない力は必要である。だが、その力は、自分を安売りするためではなく、自分が置かれている状況を冷静に見るために使われるべきである。感情を管理することと、感情を買い叩かれることは違う。ここを混同すると、人は自分の鎖を磨き始める。
資本主義社会では、人間は直接には所有されない。誰かが身体を買い、家畜のように市場で売るわけではない。少なくとも法的には、人は自由に働き、自由に辞め、自由に契約していることになっている。しかし生活費、家賃、借金、将来不安、評価制度、履歴書の空白がある。だから多くの人は、自由に選んでいる形を取りながら、実際には選ばざるをえない。古代の鎖は鉄でできていたが、現代の鎖は請求書と不安でできている。
その時、支配する側にとって最も便利なのは、外から命令しなくても、自分で自分を追い込む人間である。もっと頑張らなければならない。もっと感情を整えなければならない。もっと市場価値を高めなければならない。もっと生産的でなければならない。こうして、かつて外にいた主人は、内側へ移動する。主人は鞭を持たず、目標、習慣、自己責任、成長という名前で、人間の心の中に住みつく。
ストイックな人間が良い奴隷として高く売れそうだ、という皮肉は、ここで現代的な意味を持つ。現代の奴隷は、必ずしも鎖でつながれていない。むしろ、鎖が見えないからこそ、自分が自由だと思いやすい。何かが苦しい時も、社会が悪いのではなく、自分の受け止め方が悪いのだと考える。収入が低いのは努力不足、疲れているのは体調管理不足、不安なのはメンタルが弱いからだと考える。こうして構造の問題は、個人の修行に変わる。
もちろん、個人の修行が不要だということではない。怒りや不安や嫉妬に振り回されれば、自分の人生は簡単に壊れる。自分にできることと、できないことを分ける力は必要である。だがその区別は、苦しみの原因をすべて自分に押し戻すためのものではない。雨の日に傘を持つ責任はある。だが、雨そのものを降らせた責任まで背負う必要はない。会社が壊れている時に、心の持ち方だけを変えても、濡れ続けることに変わりはない。
だから、ストイックさが求められた時には、ひとつ問いを挟む必要がある。この忍耐は、自分の尊厳を守るためのものなのか。それとも、誰かの都合を守るためのものなのか。この我慢は、次の一歩を冷静に選ぶためのものなのか。それとも、同じ場所に縛りつけられるためのものなのか。ストア哲学の危険と可能性は、この問いの向こうにある。内面の自由は、外部の不自由を正当化するためにあるのではない。
支配者は、鎖よりも自己管理を好む。鎖は目に見えるし、見えれば反発も生まれる。だが自己管理は、本人の美徳に見える。働きすぎても、真面目な人だと言われる。怒りを飲み込んでも、大人だと言われる。低い報酬で耐えても、好きなことを仕事にしているのだから幸せだと言われる。そうやって人間は、褒められながら消耗していく。褒め言葉の形をした命令ほど、疑いにくいものはない。
ストア哲学を読むなら、この危うさから始めなければならない。ストイックであることは、立派なことかもしれない。だが、その立派さが誰かの利益に組み込まれた瞬間、それは奴隷向きの性能になる。問題は、耐えることではない。何のために耐えるのかである。問題は、感情を整えることではない。誰のために整えさせられているのかである。ストイックな人間は良い奴隷として高く売れそうだ。この嫌な一文は、哲学を自己啓発から取り戻すための、最初の警報である。
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