文学・思想の一丁目一番地
誰が普通を決めたの? 哲学的な問い19
第一章 普通って不変じゃない。じゃあ誰が変えたの?
普通は、いつも昔からそこにあった顔をしている。朝になれば学校や会社へ行く。年齢が来れば進学し、就職し、結婚し、家族を作る。人前では礼儀正しくふるまい、場の空気を読み、あまり目立たないようにする。そうしたことは、まるで季節がめぐるように自然なことだと思われている。けれども、少し時間をずらして見るだけで、その普通は急に頼りなくなる。
かつては、電話は家に置かれているものだった。家族の誰かが出て、相手の名前を聞き、本人に取り次ぐ。今では、一人一台のスマホを持ち、電話よりもメッセージで連絡することの方が普通になった。昔は、知らない相手から電話が来ても出るのが普通だったかもしれない。今では、知らない番号なら出ないことも普通になった。機械が変わっただけではない。人との距離感、返事の速度、連絡を取る礼儀まで変わったのである。
では、誰がそれを変えたのか。ある日、どこかの会議室で「今日から電話に出ないのを普通にしよう」と決めた人がいたわけではない。法律でそう命じられたわけでもない。けれども、通信技術が変わり、詐欺電話や営業電話が増え、若い世代が通話よりメッセージを好み、企業もアプリやメールを使い始めた。その積み重なりの中で、普通は静かに移動した。普通を変えたのは一人ではない。技術、商売、不安、便利さ、世代差、それらが束になって変えたのである。
普通とは、石のように最初から転がっているものではない。むしろ、何度も踏まれてできた道に近い。最初は草むらだった場所でも、誰かが通り、次の人が通り、また別の人が通るうちに、そこだけ地面が固くなる。やがて人は、その道が昔からあったような気になってくる。しかし道は、歩かれたから道になったのであって、最初から道だったわけではない。普通も同じである。多くの人が繰り返し、制度が支え、言葉がそれを当然のように語ることで、普通は普通になる。
たとえば、服装を考えると分かりやすい。昔は、男が長髪にするだけで反抗的だと見られた時代があった。女がズボンをはくことに、違和感を持つ人もいた。今では、長髪の男性も、ズボンの女性も、特別な存在ではない。もちろん、場面によって服装の規範はまだ残っている。就職活動では黒いスーツが並び、葬式では黒い服を着るのが普通とされる。けれども、日常の服装の幅は広がった。かつて異端だったものが、時間をかけて選択肢の一つになったのである。
ここで重要なのは、普通が変わるとき、いつも正義の勝利のように進むわけではないことだ。多くの場合、それはもっと曖昧で、もっと泥くさい。誰かが不便を感じる。誰かが恥ずかしさに耐えながら違う服を着る。誰かが古い決まりに文句を言う。企業が売れると思って商品を作る。メディアが新しい生活像を映す。法律が少し遅れて追いつく。最初は変だと言われていたものが、珍しくなくなり、やがて説明を必要としなくなる。その瞬間、普通は入れ替わっている。
結婚も、普通の変化がよく見える領域である。昔は、一定の年齢になれば結婚するのが当然とされ、結婚しない人は何か理由がある人のように見られた。さらに結婚すれば子どもを持つのが普通で、家族はこうあるべきだという形も強かった。今では、結婚しない人、子どもを持たない人、一人で暮らす人、離婚して別の人生を選ぶ人も珍しくない。とはいえ、完全に自由になったわけではない。「まだ結婚しないのか」「子どもはどうするのか」という言葉は、今も残っている。古い普通と新しい普通が、同じ社会の中で重なっているのである。
普通は一枚岩ではない。時代によっても変わるが、場所によっても変わる。都会では普通のことが、地方では目立つことがある。若い世代では当たり前の言葉が、年配の世代には失礼に聞こえることがある。家庭によって、食事の時間、親子の距離、金銭感覚、休日の過ごし方は違う。ある家で普通だった沈黙が、別の家では冷たい態度になる。ある職場で普通だった長時間労働が、別の職場では異常になる。普通とは、いつも「どこで」「誰にとって」という条件を隠している。
それなのに、人は普通という言葉を、まるで世界共通のもののように使う。「普通はそうする」「普通は分かる」「普通は我慢する」。この言葉が強いのは、理由を言わなくて済むからである。なぜそうすべきなのかを説明するかわりに、「普通だから」と言えば話が終わってしまう。普通は、議論を省略する力を持っている。だから便利でもあり、危険でもある。便利な場面では、いちいち説明しなくても社会が動く。危険な場面では、説明されないまま人が押しつぶされる。
学校へ行くのが普通だ、という言葉もそうである。学校は、子どもが知識を学び、友人を作り、社会生活を覚える場所だとされてきた。その意味では、学校に行く普通には大きな役割があった。けれども、学校に行けない子どもが現れると、その普通は別の顔を見せる。本人が苦しんでいても、「普通は行くものだ」という基準だけで測られると、問題は学校の環境ではなく、本人の弱さに見えてしまう。普通が強すぎると、現実を見る目が曇るのである。
働くことについても同じである。働いて収入を得ることは、多くの社会で生活の基盤になっている。だから、働くのが普通だという感覚は強い。しかし、その普通は、病気、介護、障害、不況、家庭の事情、精神的な限界といった複雑な現実を、しばしば一つの物差しで測ってしまう。「働いているか、いないか」だけで人間を判断すると、その背後にある事情は見えなくなる。普通は、現実を整理する道具であると同時に、現実を雑に切り捨てる刃にもなる。
では、普通を変えるのは誰なのか。政府は普通を変える力を持っている。法律を作り、制度を整え、学校や会社のルールに影響を与えるからである。企業も普通を変える。新しい商品やサービスを広め、人々の生活習慣を変えるからである。メディアも普通を変える。何を美しいと見せ、何を成功と呼び、何を問題として語るかによって、人々の感覚を動かすからである。家族も普通を変える。子どもに何を許し、何を恥だと教えるかによって、普通の最初の形を作るからである。
しかし、普通を変えるのは大きな力だけではない。むしろ、最初の変化は小さな逸脱から始まることが多い。誰かが「それはおかしい」と言う。誰かが別の生き方を試す。誰かが沈黙をやめる。誰かが今まで隠していた苦しさを言葉にする。そのとき、まだ社会全体は変わっていない。周囲からは、わがまま、非常識、甘え、変人と呼ばれるかもしれない。それでも、その小さなズレが積み重なると、次の人にとっての選択肢になる。逸脱は、未来の普通の材料なのである。
ただし、普通を疑うことは、普通をすべて壊すことではない。信号を守る普通、約束を守る普通、人を殴らない普通、困っている人を助ける普通は、社会を支える大切な土台である。問題は、どんな普通も同じ強さで守ろうとすることにある。人を守る普通と、人を縛る普通を分けて考えなければならない。道路があるから人は移動できるが、道路が一本しかなければ、そこを歩けない人は置き去りになる。必要なのは、道をなくすことではなく、道を増やすことなのである。
普通が不変ではないと分かると、世界の見え方は少し変わる。今ある普通も、かつて誰かが作り、誰かが支え、誰かが疑い、誰かが変えてきたものだと見えてくる。そう考えると、「普通だから仕方ない」という言葉は弱くなる。代わりに、「その普通は誰を助けているのか」「誰を苦しめているのか」「いつからそうなったのか」「別の普通は作れないのか」という問いが立ち上がる。
普通は、誰か一人が決めたものではない。けれども、誰も決めていないわけでもない。無数の人々の行動、制度の設計、商品の普及、家族の言葉、学校の評価、会社の慣習、メディアの反復が、少しずつ普通を固めている。そして、そこから外れた人の違和感や抵抗が、少しずつ普通を揺らしている。普通とは、完成した答えではなく、社会が毎日書き換えている下書きである。だからこそ、それを読むことも、書き換えることもできる。
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