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本当の共産主義ってなに? 哲学的な問い21

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第一章 共産主義って破綻したのでは?

 共産主義は破綻した。いきなりそう言ってしまってよい。二十世紀を代表する巨大な理念は、二十世紀の終わりに、ほとんど歴史の判決を受けた。ソ連は崩壊し、東欧の社会主義体制は次々と消え、中国は市場を導入し、いまでは世界最大級の資本主義的生産装置になっている。かつて「資本主義か、共産主義か」と問われた世界は、いまでは「自由資本主義か、権威主義的資本主義か」という構図に近づいている。共産主義という看板は残っていても、その中身は、かつて語られた地上の楽園とはかなり違う。

 では、それで話は終わりなのだろうか。共産主義は失敗した。だから忘れてよい。そう片づけられるなら、これほど楽なことはない。だが、実際にはそうならない。なぜなら、共産主義は単なる経済政策ではなかったからである。税率をどうするか、企業をどこまで規制するか、福祉をどれだけ厚くするか、そういう制度設計の話だけではなかった。共産主義は、人間が人間に支配されることへの怒りであり、働く者が報われないことへの違和感であり、貧しい者が貧しいまま捨てられる世界への拒絶だった。制度としては敗れたとしても、その根にある感情までは消えていない。

 たとえば、工場で一日中働いている人間がいる。その人は製品を作っている。しかし、その製品はその人のものではない。会社のものであり、株主のものであり、市場で売られる商品である。働いた人間には賃金が渡される。もちろん、賃金があるから生活できる。だが、ふと考える。自分が作ったものなのに、なぜ自分のものではないのか。自分の時間を売っているのに、なぜ自分の人生は豊かにならないのか。この問いは、資本論を読まなくても生まれる。むしろ、読まない人間のほうが、体で先に知っていることかもしれない。

 ここに共産主義の強さがあった。共産主義は、難しい理論として広がっただけではない。人々が日々感じていた不公平に、名前を与えた。貧困は個人の怠けではなく、社会の仕組みの問題である。労働者が弱いのは、能力が低いからではなく、生産手段を持たないからである。金持ちが豊かなのは、単に勤勉だからではなく、他人の労働から利益を得る位置にいるからである。そう説明されたとき、多くの人間は、自分の苦しみが個人的な敗北ではなく、歴史的な構造の中にあると感じた。

 これは恐ろしく魅力的な説明だった。人は苦しいとき、ただ慰められたいだけではない。自分がなぜ苦しいのかを知りたい。しかも、その苦しみが自分だけのせいではないと分かったとき、人は立ち上がることができる。共産主義は、その立ち上がるための物語を与えた。おまえは負け犬ではない。おまえは歴史の主人公である。おまえが奪われているものを取り戻すことが、未来を作ることである。こう言われたとき、工場の労働者も、貧しい農民も、植民地の知識人も、敗戦国の青年も、その言葉の中に自分の場所を見つけることができた。

 ただし、ここで気をつけなければならない。共産主義を信じた人々の全員が、マルクスを読み込んでいたわけではない。世界の半分の人間が『資本論』を読んだなどと考えるのは、あまりに非現実的である。ましてや『共産党宣言』の理論を精密に理解し、剰余価値や歴史唯物論を検討したうえで、革命に身を投じた人間ばかりだったわけでもない。多くの人にとって共産主義は、難解な理論ではなく、もっと単純な希望だった。地主に奪われない土地がほしい。飢えない暮らしがほしい。金持ちだけが学校へ行ける世界を変えたい。外国の支配から脱したい。誰もが人間として扱われる社会がほしい。これらの願いが、共産主義という旗に集まった。

 共産主義を理解するには、マルクスだけを読んでも足りない。もちろん、マルクスは重要である。彼は資本主義の構造を鋭く分析し、労働、商品、貨幣、資本、階級という言葉に、巨大な理論的力を与えた。しかし、二十世紀の共産主義は、マルクスの本からそのまま出てきたわけではない。そこには、ロシアの後進性があり、中国の農民社会があり、植民地支配への怒りがあり、戦争と飢餓があり、近代化への焦りがあった。つまり、共産主義は一冊の本から生まれた思想ではなく、世界中の不満が一つの言葉に流れ込んだ巨大な河だった。

 その河は、ある時期には本当に世界を二つに分けた。片側には資本主義があり、もう片側には共産主義があった。アメリカとソ連は、軍事、経済、科学、宇宙開発、文化宣伝、代理戦争のすべてで競争した。ベルリンの壁は、ただのコンクリートではなかった。それは、人類が未来を二種類に分けて想像していた時代の象徴だった。市場による繁栄か、計画による平等か。個人の自由か、集団の解放か。競争か、連帯か。もちろん現実は、そんなにきれいに分かれていたわけではない。それでも二十世紀の人々は、この対立の中で生きていた。

 だが、結果は明らかだった。計画経済は硬直し、官僚制は肥大化し、言論の自由は抑圧され、党は人民を代表するどころか、人民の上に立つ存在になった。労働者の国家であるはずの国で、労働者は自由にものを言えなかった。階級のない社会を作るはずが、党幹部という新しい支配層が生まれた。市場の暴力をなくすはずが、国家の暴力が巨大化した。ここに共産主義の悲劇がある。人間を解放するはずの思想が、人間を管理する思想に変わったのである。

 この失敗を見て「あれは本当の共産主義ではない」と言う人がいる。この言葉には、ある程度の正しさがある。マルクスが思い描いたのは、国家が人間を細かく監視し、党が社会を命令し、秘密警察が異論を潰すような社会ではなかった。階級が消え、国家が死滅し、人間が自由に発達する社会こそが、理念としての共産主義だった。そう考えれば、ソ連型社会主義は、たしかに「本当の共産主義」ではなかったと言える。

 しかし、その言葉には危うさもある。失敗した現実をすべて「本当ではなかった」と切り捨てれば、思想は永遠に責任を取らずに済んでしまう。飛ばなかった飛行機を指して「あれは本当の飛行機ではない」と言うことはできる。だが、設計図を描いた者は、なぜ飛ばなかったのかを説明しなければならない。共産主義も同じである。もし現実の共産主義国家がすべて失敗作だったと言うなら、なぜ失敗作ばかりが生まれたのかを問わなければならない。理想が美しかったことと、実装が危険だったことは、どちらも同時に見なければならない。

 ここで、本当の問いが見えてくる。本当の共産主義とは何か。それは、マルクスの本の中にだけあるのか。それとも、マルクス以前から人間の中にあった夢なのか。飢えた者に食べ物を分ける感覚、村で共同の井戸を守る感覚、災害時に物資を独占する者への怒り、働かない者が働く者を支配することへの反発、こうしたものはマルクスより古い。人間はずっと昔から、富の偏りに不安を覚え、共同体の崩壊に怯え、強い者だけが勝つ世界に疑問を持ってきた。

 そう考えると、共産主義の正体は少し違って見える。共産主義は、単なる政治思想ではない。所有と市場が人間を支配することへの反乱である。だが、その反乱が国家権力を握ると、今度は国家が人間を支配し始める。ここに、共産主義の光と影がある。共産主義は、人間を物のように扱う資本主義への批判としては強かった。しかし、人間を自由にする制度を作ることには失敗した。批判としては鋭く、統治としては危うかったのである。

 共産主義は破綻した、という出発点は間違っていない。ただし、それは最後の答えではなく、最初の扉である。制度としての共産主義は敗れた。だが、共産主義を生んだ問いは残っている。なぜ働く人間が貧しいのか。なぜ所有する者が支配するのか。なぜ市場は人間の尊厳を簡単に値段へ変えてしまうのか。なぜ平等を求める運動は、しばしば自由を奪う権力へ変わるのか。これらの問いを見ないまま、ただ「共産主義は失敗した」と笑うなら、資本主義の側もまた、自分自身を理解し損なう。

 共産主義は、失敗した答えである。しかし、失敗した問いではない。この区別から始めなければならない。二十世紀の共産主義国家を擁護する必要はない。むしろ、その暴力、抑圧、官僚制、飢餓、恐怖を直視しなければならない。だが同時に、なぜ多くの人がそこに希望を見たのかも考えなければならない。人間は愚かだったから共産主義を信じたのではない。苦しみがあったから信じたのである。ここを見誤ると、亡霊はまた戻ってくる。亡霊は、墓場からではなく、未解決の現実からやってくる。

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