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脱構築と誤読・曲解って何が違うの? 哲学的な問い22
第一章 脱構築・誤読・曲解に違いはあるの?
ある文章を読んで、そこに書かれていない意味を見つけたとする。それは鋭い読解なのだろうか。それとも、単なる読み間違いなのだろうか。さらに、自分に都合よく意味をねじ曲げた曲解なのかもしれない。脱構築、誤読、曲解は、どれも文章の表面をそのまま受け取らない点でよく似ている。だから脱構築は、しばしば難しい言葉を使った深読みや、知的に飾られた曲解ではないかと疑われる。
たとえば、ある人が「今日は一人でいたい」と言ったとする。この言葉を「今日は静かに過ごしたいという意味だ」と受け取るのは、ひとまず自然な読解である。ところが「私のことが嫌いになったのだ」と受け取れば、誤読の可能性が出てくる。相手が一人でいたい理由は、疲労かもしれず、仕事に集中したいからかもしれない。そこへ恋愛関係の破綻という意味を加えるには、別の根拠が必要になる。
さらに、その言葉を他人へ伝える時「もう会いたくないと言われた」と言い換えたなら、曲解に近づく。「一人でいたい」と「もう会いたくない」は同じではない。時間的な限定も、感情の強さも変わっている。元の言葉に含まれていた「今日は」という条件を削り、関係全体の拒絶へと意味を拡大しているからである。
では、脱構築は何をするのだろうか。脱構築的に読むなら「一人でいたい」という言葉が、一人と他人をどのように区別しているかを考えるかもしれない。一人でいることは、他人が完全に不在になることなのか。本人は、他人から教わった言葉を使い、他人との関係を意識しながら「一人でいたい」と語っている。すると孤独は、他人との関係から完全に切り離された状態ではなく、他人との距離の取り方として成立していることが分かる。
これは「一人でいたいとは、本当は誰かといたいという意味だ」と言い換えることではない。そのように反対の意味へひっくり返せば、かえって曲解になりうる。脱構築が注目するのは、一人と他人という対立が、見かけほど単純ではないという点である。一人であることを理解するためにも、他人の存在を必要とする。片方を排除して成立しているように見える概念が、実は排除した相手に支えられている。その依存関係を明らかにするのが、脱構築の基本的な動きである。
誤読とは、文章の語句、文法、事実関係、文脈を取り違えることである。外国語の単語を誤って訳したり、皮肉を真面目な主張として読んだりすれば、誤読が生じる。もっとも、誤読には必ずしも悪意があるわけではない。知識不足や先入観、読み飛ばしによって、誰にでも起こる。誤読は、読解に伴う事故である。
曲解とは、文章の限定や前後関係を削り、自分に都合のよい形へ変形することである。ただし、曲解がいつも計画的に行われるとは限らない。人は自分の信念に合う部分を強く記憶し、不都合な部分を見落とす。相手を悪人だと思っていれば、曖昧な発言まで悪意の証拠に見える。本人が正確に読んでいるつもりでも、欲望や恐怖によって意味を曲げていることがある。
誤読と曲解の違いを、読み手の心の中だけで判定するのは難しい。わざと間違えたのか、偶然間違えたのかは、外からは分からないことが多い。そこで重要になるのは、動機を推測することより、文章にどのような操作が加えられたかを確かめることである。条件を削ったのか、語の意味を入れ替えたのか、反対の証拠を無視したのか。読解の手続きを調べれば、少なくとも、その読みが文章によってどこまで支えられているかは判断できる。
脱構築もまた、文章に隠された真意を透視する魔法ではない。著者の無意識を、読者が自由に発明する作業でもない。むしろ文章を細かく読み、繰り返される言葉、比喩、例外、対立、言いよどみを追う。文章が表面では何を主張し、その主張を成立させるために何を低く置き、何を外へ追い出しているかを見るのである。
たとえば「理性的な人間は、感情に流されてはならない」という文章があるとする。誤読は、これを「感情は一切不要だという主張だ」と読むことかもしれない。元の文章は「流されるな」と言っているだけで、感情そのものを消せとは言っていない。曲解は、その文章を引用して「この人は悲しむ人間を否定している」と攻撃することだろう。感情の統制という話を、感情を持つ人間の否定へ変えている。
脱構築は、理性と感情の対立そのものを調べる。理性が感情から完全に独立しているなら、何を望ましいと判断するのか。真理を知りたい、正しく考えたい、失敗を避けたいという動機には、すでに欲望や不安が含まれている。感情を下位に置く理性が、実は感情的な動機に支えられているなら、両者の関係は単純な上下ではなくなる。
ここでも、脱構築は「感情の方が理性より偉い」と結論するわけではない。上下関係を逆転させるだけなら、古い椅子に別の人を座らせたにすぎない。脱構築が示すのは、理性と感情が互いに汚染され、片方だけでは自分を定義できないということである。理性は感情ではないものとして説明され、感情も理性ではないものとして説明される。二つは対立しながら、互いを必要としている。
このような読みは、著者が意図していなかった意味を取り出す。そのため、脱構築は誤読に見えやすい。著者が「そんなことは書いていない」と反論することもある。しかし、著者が意図しなかったことと、文章に根拠がないことは同じではない。人は自分が選んだ比喩や概念が、どのような歴史や対立を背負っているかを、すべて意識して書いているわけではない。
著者の意図は、読解にとって重要な証拠である。だが、それだけが意味のすべてを決めるわけではない。差別する意図はなかったという発言が、表現の効果を自動的に消さないのと同じである。反対に、著者の意図を無視してよいわけでもない。著者が何を論じ、誰に答え、どの言葉を選んだかを調べずに、現代の関心だけを押しつければ、脱構築ではなく曲解になる。
したがって、脱構築と誤読、曲解の違いは、解釈が意外かどうかでは決まらない。常識に反する読みが正しいこともあれば、平凡な読みが間違っていることもある。重要なのは、どの語句を根拠にしたのか、前後の文章と矛盾しないか、別の例にも説明力を持つか、反例が出た時に修正できるかである。
ここで、脱構築には重い責任が生じる。表面に書かれていない意味を指摘するほど、その根拠を詳しく示さなければならない。「これは権力を隠している」「この文章は女性を排除している」と断言するだけでは足りない。どの区別が使われ、どちらが上位に置かれ、下位の側がどのように利用されているかを、文章に即して説明する必要がある。
脱構築は、正解をなくす思想だと誤解されることがある。しかし、意味が一つに固定できないことと、すべての読みが同じ価値を持つことは違う。将棋に複数の指し手があるからといって、盤にミカンを置く行為まで有効な手になるわけではない。文章にも複数の読みがありうるが、その読みは文章との関係によって、強くも弱くもなる。
誤読は訂正されうる。曲解は、訂正を拒み、自分に都合のよい部分へ逃げ込みやすい。脱構築は、自分の読みの根拠を公開し、別の読みからの反論を受けなければならない。脱構築が批判から逃れるための看板になった時、それはすでに脱構築の精神を裏切っている。
脱構築は曲解ではない。しかし、脱構築と名乗れば、曲解でなくなるわけでもない。両者を分けるのは、高度な専門用語でも、著者への反抗でもない。文章の細部へ戻り、自分がどのように意味を導いたかを示し、その読みが間違っている可能性を残せるかどうかである。
読むことは、文章から意味を受け取るだけの行為ではない。どの言葉を重く見て、どの部分を省略し、どの意味を他人へ伝えるかを選ぶ行為でもある。読者は、他人の言葉を一時的に預かり、その姿を変えて次の人へ渡している。脱構築、誤読、曲解の違いを考えることは、難しい哲学用語を分類することではない。他人の言葉を、どこまで自分のものとして扱ってよいのかを考えることである。
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