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もし明日すべての願いが叶ったら実存は変えられる? 哲学的な問い23

もし明日すべての願いが叶ったら実存は変えられる? 哲学的な問い23
もし明日すべての願いが叶ったら実存は変えられる? 哲学的な問い23

第一章 もし明日すべての願いが叶ったら私は私でいられるだろうか? そもそも実存ってなに?

 もし明日の朝、目を覚ました瞬間に、これまで願ってきたことがすべて叶っていたらどうなるだろう。銀行口座には十分すぎる金があり、病気は治り、欲しかった才能まで手に入っている。長く会いたかった人から連絡が来て、書きかけの作品は高く評価され、過去に自分を軽んじた人々も考えを改めている。窓の外は昨日と同じ朝なのに、人生の条件だけが見違えるほど変わっている。

 最初の数時間は、きっと幸福でいられる。金額を何度も確認し、鏡を見て、届いた連絡を読み返すだろう。もう失敗を恐れなくてよい、もう他人に認められるために無理をしなくてよい。そう思ったとき、長く背負っていた荷物が床へ落ちる。だが荷物を下ろしたあと、そこに立っているのは誰だろう。昨日まで、その荷物を運ぶことで形を保っていた自分ではないのか。

 願いが叶えば、人生は変わる。しかし、人生が変わることと実存が変わることは同じではない。ここでいう人生とは、収入、健康、住居、評判、人間関係のような条件の集まりである。

 それに対して実存とは、その条件のなかで、自分が自分の生をどう引き受けているかという問題である。何を持っているかではなく、それを持つ自分としてどう生きるか。何が起きたかではなく、起きたことにどのような態度を取り、次に何を選ぶか。その問いが実存の入口になる。

 存在と実存は、よく似た言葉だが同じではない。机は存在する。石も存在する。しかし机は、自分がなぜ机なのかを苦にしない。石は、もっと立派な石になれなかったと後悔しない。人間も物として見れば存在しているが、それだけでは終わらない。人間は、自分が何者なのかを気にし、別の生き方があったのではないかと考え、まだ決まっていない未来へ自分を投げ出している。

 この、自分の存在を自分自身の問題として生きることを、本書では実存と呼ぶ。実存は、性格や個性の別名ではない。目立つ服を着ることでも、人と違う意見を持つことでもない。

 静かに会社へ通い、家族と食事をし、毎日同じ道を歩く人にも、実存の問題はある。反対に破天荒な生活をしていても、世間から与えられた「自由人らしさ」を演じているだけなら、自分の生を引き受けているとは限らない。

 たとえば、長いあいだ「有名な作家になりたい」と願っていた人がいるとする。ある朝、その人の本が突然売れ、何万人もの読者から賞賛され、生活の心配もなくなった。願いは叶った。

 だが、その人が書き続ける理由まで、自動的に与えられるわけではない。それまでは、売れたい、見返したい、生活を立てたいという切迫感が机へ向かわせていた。成功によって燃料が一度に消えたとき、書くことを望んでいたのか、成功した自分になりたかったのかが露出する。

 願望は、未来へ張られた糸のようなものである。それをたぐり寄せるあいだ、人は進む方向を感じられる。ところが願いが叶えば、糸の先はもう手元にある。成就は欠けていたものを埋めると同時に、自分を支えていた緊張や物語を終わらせることがある。

 だからといって、願いは叶わないほうがよいという話ではない。貧困、病気、暴力、孤独を、実存を鍛える試練として美化することはできない。食べるものがなく、身体の痛みに支配されているとき、人は可能性を選ぶ以前に、生存のための行動を迫られる。

 人生の条件は重要であり、改善されるべきである。ただし、条件が改善されれば、生きる意味まで自動的に供給されるわけではない。苦しみが消えることと、生き方が定まることのあいだには、見落とされやすい距離がある。

 この距離を考えるために、「条件変化」と「実存変容」を区別しておきたい。条件変化とは、金が増える、健康になる、評価される、自由な時間ができるといった変化である。

 実存変容とは、自分の過去、可能性、他者、死に対する関係が変わり、選択の仕方まで変化することである。大金を得ても、失う恐怖に支配され続けるなら、生き方は以前のままである。

 反対に収入が変わらなくても、失敗を敗北の証拠ではなく、次の選択を作る材料として受け止め直すなら、実存は変わり始めている。

 ただし、人は完全に自由ではない。自分が生まれる国や家庭、身体、時代を選べない。過去に起きたことも消せず、他人の心も支配できず、死を避けることもできない。哲学者ハイデガーは、人間がすでに世界のなかへ投げ込まれていることを「被投性」と呼んだ。気づいたときには、物語は始まっており、舞台も身体もある程度決まっている。

 しかし、与えられた条件が多いことは、すべてが決定済みだという意味ではない。人は過去を選べないが、過去をどう意味づけるかは一つに決まっていない。同じ失敗を、才能の欠如と読むことも、方法を変える合図と読むこともできる。

 同じ孤独を、世界から拒絶された証拠と読むことも、他人の声から離れて考える時間と読むこともできる。どの読み方も同じように正しいわけではないが、事実と意味は完全には重ならない。その隙間に、実存の余地が生まれる。

 サルトルは「実存は本質に先立つ」と述べた。人間には、椅子やナイフのように、あらかじめ決められた用途がないという意味である。椅子は座るために作られ、ナイフは切るために作られる。だが人間は、作家になるため、親になるため、善人になるために製造されたわけではない。

 人間はまず存在し、そのあとで行為を重ね、自分が何者であるかを形づくっていく。完成品として生まれるのではなく、選択によって少しずつ輪郭を持つ。ただし、これは「なりたいものに何でもなれる」という励ましではない。努力すれば必ず夢が叶い、環境の差は気の持ちようで消える、という話でもない。

 実存が本質に先立つとは、自分を完全な一語で固定することはできないということである。「無職だから何者でもない」「失敗したから敗北者だ」「成功したから価値がある」という言葉は、複雑な生を一枚の札に閉じ込める。人は事実から逃れられないが、事実そのものと同一になるわけでもない。

 もし明日、すべての願いが叶ったとしても、昨日までの記憶は残る。傷つけられた経験、うまくいかなかった時間、誰にも見せなかった嫉妬や恐怖も消えないだろう。願望成就は、古い自分を削除し、新しい自分へ入れ替える装置ではない。

 むしろ、言い訳にしていた障害がなくなったあと、何を選ぶのかを突きつける。金がないからできなかった、時間がないから始められなかった。その理由が消えたとき、残るのは自由だけではなく、自由に伴う責任である。

 願いが叶う前には、未来が自分を救うように見える。いつか成功し、愛され、自由になれば、本当の人生が始まると考える。しかし未来が現在になった瞬間、本当の人生は、また別の未来へ逃げていくかもしれない。願望は人生を前へ動かすが、現在を仮設の待合室へ変えることもある。

 実存の問題は、この待合室から始まる。願いが叶わない現在を、ただの準備期間として扱うのか。それとも、条件が不完全なままでも、選び、作り、誰かと関係を結ぶ時間として生きるのか。実存は、理想の条件が到着したあとに現れるものではない。条件を待っている今も、すでに働いている。

 では、もし明日すべての願いが叶ったら、私は私でいられるだろうか。答えは、同じ私でありながら、同じ私ではいられない、となる。記憶、身体、過去の選択は連続しているため、突然まったくの別人になるわけではない。

 しかし、願いによって支えられていた自己像は崩れ、何を目指す人間なのかを選び直さなければならない。願望成就は、私を完成させるより先に、私を説明していた物語を終わらせる。実存を変えるとは、別の人生を手に入れることではない。与えられた人生と結んでいる関係を、別の仕方へ変えることである。

 金、才能、愛、健康が、こちらに代わって生きてくれるわけではない。願いが叶った翌朝にも、起き上がるか、誰に会うか、何を始めるかを選ぶ必要がある。

 願いが叶えば、世界は変わる。しかし実存が変わるのは、変わった世界に対して、これまでとは違う応答を始めたときである。明日の奇跡を待つことより、奇跡のあとに何を選ぶのかを考えること。その問いを持った瞬間から、実存はすでに動き始めている。

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