文学・思想の一丁目一番地
帰納と証明はどちらが偉い? 哲学的な問い24
第一章 まず帰納と証明ってなに?
帰納と証明は、どちらも「正しいことを確かめる方法」のように見える。実際、私たちは何かを信じる理由を尋ねられたとき「これまでずっとそうだったから」と答えることもあれば「理屈で考えれば必ずそうなる」と答えることもある。前者は帰納に近く、後者は証明に近い。しかし、この二つを同じ種類の方法として並べると、最初から少しだけ話がずれてしまう。帰納は推論の進み方であり、証明は命題の正しさを示す手続きだからである。
まず帰納とは、いくつかの具体的な事実から、より広い法則や傾向を推測することである。近所で見かけたカラスが黒かった。動物園で見たカラスも黒かった。映像に映っていた外国のカラスも黒かった。そこで「カラスは黒い鳥なのだろう」と考える。このとき私たちは、観察した限られたカラスから、まだ見ていないカラスを含む全体について判断している。この一歩が帰納である。
帰納の特徴は、すでに見たものから、まだ見ていないものへ進むところにある。昨日まで毎朝、同じ時間にバスが来たので、今日も同じ時間に来るだろうと予想する。ある作家の本を三冊読んで、すべて面白かったので、次の一冊も面白いだろうと期待する。ある広告を出した週に売上が伸びたので、その広告には効果があるかもしれないと考える。どれも過去の事例から、未来や全体を推測している。
ただし、帰納によって導かれた結論は、どれほどもっともらしくても必ず正しいとは限らない。百羽のカラスがすべて黒くても、百一羽目に白いカラスが現れる可能性は残る。三冊続けて面白かった作家の四冊目が、退屈であることもある。広告を出した直後に売上が増えても、給料日や季節の変化が原因だったのかもしれない。帰納は、結論を強く支持することはできるが、例外の存在を完全には排除できない。
では、証明とは何だろうか。証明とは、ある命題を認めるなら、その結論も認めなければならないことを、論理的な手順によって示すことである。ここでは、似た例をたくさん集める必要はない。重要なのは、定義や前提から結論までの道が切れずにつながっていることだ。証明は「何度もそうだった」と訴えるのではなく「この前提を認めるなら、ほかの結論には進めない」と相手を追い込む。
たとえば、偶数と偶数を足すと、必ず偶数になる。このことを確かめるために、二足す四、六足す八、百足す二百と、例を延々と調べることもできる。しかし、それでは調べていない組み合わせが残る。そこで、すべての偶数は、二とある整数の積として表せる、という定義を使う。二つの偶数を二掛ける整数と二掛ける別の整数として表せば、その和も二掛ける整数になる。したがって、偶数と偶数の和は必ず偶数である。
ここで行われているのは、観察例の追加ではない。偶数という概念の構造を利用して、すべての場合を一度に扱っているのである。証明の強さは、この「一度に」にある。帰納が一羽ずつカラスを調べる方法だとすれば、証明はカラスという存在の定義や構造から、結論を導こうとする方法である。もっとも、現実のカラスには、数学の偶数ほど明確で完全な定義がない。そこに、数学と現実世界の違いが現れる。
証明の代表的な推論は演繹である。演繹では、一般的な前提から個別的な結論を導く。「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」という二つの前提を認めるなら「ソクラテスは死ぬ」という結論を拒むことはできない。ここで、ソクラテスが実際に死ぬ場面を観察する必要はない。結論は、すでに前提の中に含まれている。
このため、帰納は知識を広げる推論であり、演繹は知識を確定する推論だと説明されることがある。帰納は、観察した範囲を越えて未知の領域へ進む。その代わり、間違える危険を引き受ける。演繹は、前提に含まれた内容を論理的に取り出す。その代わり、前提そのものを越えて新しい世界へ飛び出すことはできない。帰納は冒険家に似ており、演繹は測量士に似ている。
ただし、演繹的な推論であれば、いつでも現実について正しい結論が得られるわけではない。「すべての猫は空を飛ぶ」「ミケは猫である」という前提から「ミケは空を飛ぶ」と結論する推論は、形だけを見れば正しい。前提が正しければ、結論も必ず正しくなるからである。しかし最初の前提が現実と合っていないので、結論も現実については正しくない。論理的に正しいことと、現実に正しいことは区別しなければならない。
この区別を理解するには、妥当性と健全性という言葉が役に立つ。妥当性とは、前提が正しいならば、結論も必ず正しくなる推論の形を指す。健全性とは、推論の形が妥当であり、さらに使われている前提も正しいことを指す。証明の形が完璧でも、出発点が間違っていれば、現実について正しい結論には到達できない。どれほど精密な地図でも、別の町の地図なら目的地には着けない。
帰納は、この証明の出発点を作る場面で使われる。自然科学では、観察や実験を何度も行い、そこから法則を推測する。薬を飲んだ人々の多くが回復し、飲まなかった人々より回復率が高ければ、その薬には効果があると考える。ただし、一人が薬を飲んで治っただけでは不十分である。自然に治った可能性や、別の治療が効いた可能性が残るため、比較や統計が必要になる。
このとき科学者が得るのは、数学的な意味での絶対的な証明ではない。十分に管理された実験によって、ある仮説が強く支持された、という結論である。新しい研究によって結果が修正される可能性は残されている。それでも科学が頼りになるのは、何でも疑って結論を出さないからではない。どの程度の証拠があれば、どの程度まで信じてよいかを、できるだけ公開された方法で判断するからである。
日常生活でも、私たちは帰納と証明を無意識に使い分けている。毎日穏やかに接してくれる人を、信頼できる人だと考えるのは帰納である。契約書の条件から、支払うべき金額を計算するのは演繹に近い。何度も壊れた機械を見て、次も壊れるかもしれないと予測するのは帰納である。部品が一つ欠ければ必ず動かない構造を示すのは、証明に近い。
裁判で使われる「証明」という言葉も、数学の証明とは少し異なる。裁判では、過去に起きた出来事を数学の定理のように示すことはできない。証言、映像、指紋、行動記録などを組み合わせ、最も合理的な説明を作る。そこでは演繹だけでなく、帰納や、観察された事実を最もうまく説明する仮説を選ぶ推論も使われる。現実の証明は、数学よりもずっと混成的である。
さらに紛らわしいのが、数学的帰納法という名前である。数学的帰納法には帰納という言葉が入っているが、経験的な帰納とは性格が違う。いくつかの数について式が正しいことを確認し、すべての数でも正しいだろうと推測する方法ではない。最初の場合に成立することと、ある場合に成立すれば次の場合にも成立することを示し、すべての自然数について成り立つと演繹的に証明する方法である。
ドミノを想像すると分かりやすい。最初の一枚が倒れることを確かめ、どの一枚も倒れれば必ず次の一枚を倒すことを示す。そうすれば、まだ実際には倒していない遠くの一枚まで、順番に倒れることが分かる。これは、千枚のうち百枚を試して、残りもたぶん倒れると推測する方法ではない。すべての一枚をつなぐ仕組みを示しているため、数学的帰納法は証明なのである。
帰納と証明の違いは、確実か不確実かという一言だけでは捉えきれない。帰納は、限られた情報から未知の世界へ進むための方法である。証明は、定められた前提の内部で、結論を確実にする方法である。帰納は世界について新しいことを語れるが、間違える可能性を消せない。証明は結論を必然にできるが、前提そのものが現実に合っているかまでは保証しない。
ここから「帰納と証明はどちらが偉いのか」という問いが生まれる。証明は、例外を許さない確実性を持っているため、帰納より上に見える。しかし、証明に使う前提をどこから得るのかと問えば、観察や経験が必要になる。反対に帰納は、世界について知識を増やせるが、どれほど事例を集めても最後の不安を消せない。両者は競争相手というより、異なる仕事を担当する道具なのかもしれない。
証明は、与えられた地図の中で、目的地までの道を確定する。帰納は、まだ描かれていない土地へ出て、地図そのものを作る。地図がなければ証明は歩き出せず、歩かなければ地図は増えない。どちらが偉いかを考えるには、まず何を成し遂げたいのかを知らなければならない。確実な結論が欲しいのか、それとも未知の世界について知りたいのか。その違いが、帰納と証明をめぐる議論の出発点になる。
哲学的な問い一覧に戻る
うしPのページに戻る