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確率って実在するの? 哲学的な問い26
第一章 確率って実在するの?
机の上に一枚の硬貨がある。表には数字が刻まれ、裏には模様が描かれている。その硬貨を指ではじき、床に落ちるまで待つ。まだ投げていない段階で、表が出る確率は二分の一だと言われる。では、その二分の一はどこにあるのだろう。硬貨の中を割ってみても、金属の内部から二分の一という数字が出てくるわけではない。机の上にも、空気の中にも、投げる人の指先にも、二分の一という物体は見当たらない。それでも私たちは、硬貨が投げられる前から、そこに確率があるかのように語っている。
確率とは、奇妙な存在である。長さなら定規で測ることができる。重さなら秤に載せればよい。温度なら温度計が数字を示してくれる。しかし、確率を直接測る道具はない。硬貨を千回投げ、表が五百十二回出たとしても、それは表が出た回数を数えた結果にすぎない。そこから「この硬貨の表が出る確率は、およそ二分の一だろう」と推測しているのであって、確率そのものを捕まえたわけではない。確率は、観察できるようでいて、観察された結果の背後へ逃げ込んでしまう。
もちろん、数学の教科書では、確率の求め方は明快である。六面体のサイコロを一回振り、一が出る確率は六分の一とされる。起こりうる結果が六通りあり、そのうち一が出る場合は一通りだからである。だが、ここではすでに一つの仮定が置かれている。六つの目が、どれも同じように出やすいという仮定である。もしサイコロの内部に鉛が埋め込まれ、六の面を下にして止まりやすくなっていれば、単純に六分の一とは言えない。六面あることと、六つの結果が同じ確率で起こることは、同じではない。
それでは、普通のサイコロが公平であるとは、どういう意味だろう。形が対称だから、公平だと言うことはできる。しかし、角の削れ方、素材の密度、投げる人の癖、机の硬さまで含めれば、完全な対称性など現実には存在しない。それでも私たちは、小さな差を無視し、六つの目が同じ程度に出るという模型を作る。このとき六分の一は、サイコロそのものに刻まれた性質なのか、それとも人間が現実を単純化した結果なのか。最初の問いは、すでに少し姿を変えている。確率が実在するかを問うことは、どこまでを現実と呼び、どこからを模型と呼ぶかを問うことでもある。
天気予報を考えると、この問題はさらに分かりにくくなる。明日の降水確率が三十パーセントだと発表されたとする。この数字は、明日の三十パーセントの時間だけ雨が降るという意味ではない。地域の三十パーセントに雨が降るという意味でもない。一般には、同じような気象条件がそろった過去の事例を集めたとき、そのうち一定の割合で雨が観測されたという予測である。つまり三十パーセントという数字は、明日の空だけを眺めて発見されたものではない。現在の雲、気圧、風、過去の記録、予測模型が組み合わされ、そこから一つの数字が作られている。
それでも、明日という日は一度しか来ない。雨が降れば、結果は雨である。降らなければ、結果は晴れか曇りである。明日が三十パーセントだけ雨になるわけではない。予報が三十パーセントだった日に雨が降っても、予報が間違っていたとは言えない。降らなくても、正しかったと断定はできない。一回の結果だけでは、確率の正しさを判定できないのである。ここには、個別の出来事と、多数の出来事をまとめた数字との隔たりがある。
病院で「この手術の成功率は八十パーセントです」と説明された場合も同じである。患者本人が八十パーセント成功し、二十パーセント失敗するわけではない。手術後には、成功したか失敗したかのどちらかになる。それなのに、手術前には八十パーセントという数字が重要な意味を持つ。その数字を聞いて手術を受ける人もいれば、危険が大きいと感じて断る人もいる。確率は結果ではないが、結果が生じる前の決断を動かす。目に見えない数字が、現実の選択を変え、時には生死まで左右する。
ここで、確率には少なくとも二つの考え方があることが見えてくる。一つは、確率が世界の側にあるという考え方である。硬貨には表を出しやすい性質があり、病気には一定の割合で人を死なせる性質があり、雲には雨を降らせる傾向がある。人間が調べようと調べまいと、その傾向は存在している。この立場では、確率は温度や重さほど直接的ではないにせよ、物や状況に備わった客観的な性質だと考えられる。
もう一つは、確率が人間の知識の側にあるという考え方である。硬貨を投げた瞬間、どちらの面が上になるかは、すでに物理法則によって決まっている。しかし、人間には初速、回転数、空気抵抗、床との衝突を完全に計算できない。だから二分の一という数字を使い、自分が結果を知らないことを表現する。この立場では、世界そのものが曖昧なのではない。曖昧なのは、世界についての人間の知識である。
もし、宇宙のすべてを知る存在がいたらどうだろう。その存在は、硬貨を投げる人の筋肉の動き、爪と金属が触れる角度、空気分子の衝突まで計算し、硬貨が落ちる前に結果を言い当てるかもしれない。その存在にとって、表が出る確率は二分の一ではない。表なら一、裏ならゼロである。すると、同じ硬貨について、人間には二分の一、完全な知性には一またはゼロという異なる確率が成立することになる。確率は硬貨の性質ではなく、観察者がどれだけ知っているかによって変わるように見える。
だが、この説明にも問題がある。すべての確率を無知のせいにできるとは限らないからである。現代物理学では、微小な粒子の振る舞いについて、結果が原理的に確率でしか表せないと考えられる場合がある。単に観測装置が未熟なのではなく、観測前には結果が一つに決まっていないという解釈も存在する。もし本当にそうなら、確率は人間の頭の中だけにあるのではない。自然そのものが、複数の未来へ開かれていることになる。
もっと身近な例として、抽選箱を考えてみよう。箱の中には赤い玉が一個、白い玉が九個入っている。目を閉じて一個を取り出すなら、赤を引く確率は十分の一である。しかし、玉を取り出す前から、箱の上部に赤い玉が止まっており、手を入れれば必ずそれに触れる配置になっていたとする。結果はすでに決まっているのだろうか。それとも、手の入れ方が少し変わるだけで別の玉を取る可能性があるのだろうか。十分の一という数字は、玉の個数だけを数えた結果だが、実際の抽選には配置や動作も関係している。何を情報として含め、何を無視するかによって、確率は変化する。
ここで重要なのは、確率が単独で存在する数字ではないという点である。「赤い玉が出る確率は十分の一」と言うためには、箱の中身、玉の選び方、手元にある情報を定めなければならない。箱を透明にして赤い玉の位置が見えれば、確率は変わる。誰かが玉を一個抜き取れば、確率は変わる。赤い玉が出るまで何度でも引き直せるなら、問いそのものが変わる。確率は出来事だけで決まるのではなく、条件との関係によって決まる。
それは、確率が実在しないという意味ではない。国家、法律、貨幣、言語も、石のような形で自然界に置かれているわけではない。それでも、存在しないとは言えない。千円札の価値は紙の繊維から発見されるものではないが、千円札で商品を買えるという事実は現実である。同じように、確率も物体として存在するのではなく、世界の状態、観察者の知識、採用された模型のあいだに成立する関係として存在するのかもしれない。
確率が関係だとすれば「確率は実在するのか」という問いには、ただ「する」「しない」と答えることはできない。何の確率なのか、誰にとっての確率なのか、どの情報を前提とした確率なのかを聞かなければならない。硬貨の二分の一、降水確率三十パーセント、手術の成功率八十パーセントは、同じ記号で表されても、同じ仕方で存在しているわけではない。
確率は、未来に薄く塗られた色ではない。出来事の中に含まれた数字でもない。それは、まだ起きていないことについて、現在の世界と現在の知識を結びつける方法である。だから確率を語るときには、数字だけを見てはいけない。その数字がどこから来たのか、どの集団を数えたのか、何を同じ条件とみなしたのかを問う必要がある。
確率が実在するかどうかを考える旅は、偶然の正体を探す旅であると同時に、人間が世界をどのように知るかを探す旅でもある。世界が不確かなのか、人間が無知なのか、その両方なのか。答えはまだ決められない。ただ一つ言えるのは、確率があると言う前に、その確率がどこにあるのかを尋ねなければならないということである。
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