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1億人から1円を盗む人と、1人から1億円を盗む人の罪は同じ? 哲学的な問い28

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1億人から1円を盗む人と、1人から1億円を盗む人の罪は同じ? 哲学的な問い28

第一章 同じ一億円の悪事ならどっちが罪深い?

 ある男が、銀行のシステムに忍び込み、一億人の口座から一円ずつ抜き取ったとする。一人あたりの被害は、わずか一円である。通帳を確認しても、多くの人は気づかないだろう。気づいたとしても、銀行へ電話をかけ、事情を説明し、返金を求めるために使う時間の価値の方が、一円よりはるかに高い。大半の被害者は、腹を立てることさえ面倒になり、そのまま忘れてしまう。

 別の男は、一人の口座から一億円を盗んだ。その一億円は、被害者が長年働いて貯めた金かもしれない。会社を維持するための資金かもしれず、家族の治療費や、老後の生活費だったかもしれない。被害者は家を失い、会社を倒産させ、人間関係まで壊してしまう可能性がある。一億人から一円を盗まれた世界では、ほとんど全員が普段どおりの一日を送る。しかし、一人から一億円を盗まれた世界では、たった一人の人生が、その日を境に別物になる。

 では、どちらの男の罪が重いのだろうか。

 単純に金額だけを見れば、答えは簡単である。どちらも一億円を盗んでいるのだから、同じだけ悪い。会計帳簿の上では、二つの事件に違いはない。盗まれた金額の欄には、どちらも一億円と記入される。犯罪の重さを、奪った金額だけで測れるなら、ここで問題は終わる。

 ところが、私たちの感覚は、この結論に素直には従わない。一人から一億円を盗む方が、残酷であるように感じられる。被害者の顔を想像しやすく、泣いている家族や、閉鎖された会社、売却される家まで思い浮かぶからである。一方、一億人から一円を盗む犯罪は、どこか冗談のように見える。一円くらいなら、別にいいのではないか。被害者自身も、そう考えるかもしれない。

 しかし、ここで見方を変えると、一億人から一円を盗む男の異様さが現れてくる。この男は、一人を一度だけ裏切ったのではない。一億人の所有物に、本人の許可なく手を伸ばしたのである。一億人の意思を無視し、一億人を金儲けの道具として扱った。一回の操作で盗んだとしても、侵害された権利は一億人分ある。奪った金額は一億円だが、他人を無視した回数は、一億回だとも考えられる。

 たとえば、学校で一人の生徒から一万円を盗む者と、全校生徒千人の机から十円ずつ盗む者がいたとする。合計額は同じ一万円である。しかし、後者は千個の机を調べ、千人の持ち物に触れ、千人なら気づかないだろうと計算している。その犯罪には、単なる金銭欲だけでなく、人間の無関心や諦めを利用する知恵がある。「少額なら訴えられない」「一人ひとりは怒らない」「被害者同士は連絡を取らない」という条件を、最初から利用しているのである。

 一人から一億円を盗む犯罪が、力によって被害者を押し潰す犯罪だとすれば、一億人から一円を盗む犯罪は、薄さによって姿を隠す犯罪である。前者は被害が大きいため、すぐに事件になる。警察が動き、新聞が報じ、周囲の人々も被害者を心配する。後者は一人ひとりの被害が小さいため、事件として認識されにくい。誰も本気で追及しないまま、加害者だけが一億円を手に入れる。

 ここには、犯罪にとって都合のよい逆説がある。被害者を増やせば増やすほど、犯罪の規模は大きくなるはずなのに、一人あたりの被害を小さくすれば、かえって発覚しにくくなる。普通なら、大勢を傷つけた犯罪ほど目立つはずである。ところが、被害を十分に細かく刻めば、大勢を傷つけているからこそ、誰も深刻に受け止めなくなる。

 現代社会では、このような犯罪に近い仕組みを作ることが、技術によって容易になっている。百円未満の不明な手数料、いつの間にか始まっている有料契約、解約方法が見つからないサービス、利用者に不利な端数処理などである。一件あたりの損失は小さい。利用者は違和感を覚えても、問い合わせる手間を考え、諦める。だが、同じ仕組みが百万人に適用されれば、企業や運営者には巨大な利益が生まれる。

 もちろん、不便な契約や高い手数料が、すべて盗みであるわけではない。利用者が内容を理解し、自由に同意しているなら、取引として成立する。しかし、わざと分かりにくく表示し、気づかれないことを期待し、少額だから争われないと計算しているなら、そこには一億人から一円を盗む犯罪と似た構造がある。相手の同意を得るのではなく、相手の注意力が尽きるのを待っているからである。

 それでも、一人から一億円を盗む罪の深刻さは消えない。金には、単なる数字以上の意味がある。一億円は、一億枚の一円玉ではない。それは家であり、治療であり、教育であり、事業であり、未来を選ぶための余地である。一人の人間に被害が集中すると、金銭以外のものまで連鎖的に失われる。会社の資金を盗まれれば、従業員に給料を払えなくなる。治療費を盗まれれば、病気が悪化する。住宅ローンの返済資金を盗まれれば、住む場所を失う。

 仮に犯人が捕まり、一億円が全額返されたとしても、すべてが元に戻るとは限らない。倒産した会社は復活せず、退職した従業員も戻らないかもしれない。治療の機会を逃した時間は、買い戻せない。家族の間に生じた疑いや争いも、返金だけでは消えない。被害が集中すると、金額を超えた損失が生まれ、それが取り返しのつかない形で残る。

 この違いを考えるために、「被害総量」と「被害濃度」という二つの言葉を使うことができる。被害総量とは、失われたものをすべて足した量である。二つの事件では、どちらも一億円なので、金銭的な被害総量は同じである。被害濃度とは、その損失が一人の人生に、どれほど強く集中しているかを示す。一億人から一円を盗む事件では、被害濃度は低い。一人から一億円を盗む事件では、被害濃度が極端に高い。

 ただし、被害濃度が低いからといって、罪が消えるわけではない。少量の毒を一億人の飲み物に混ぜたが、全員に健康被害は出なかった場合を考えればよい。誰も病気にならなかったから、何も悪くなかったとは言いにくい。被害が小さいことと、他人の身体や財産を勝手に扱ってよいことは、別の問題だからである。一円を失った苦痛は小さくても、一円を勝手に奪う行為には、相手の意思を無視したという意味が残る。

 ここで、罪を一つの物差しだけで測ろうとする考えが崩れ始める。被害額だけを見るなら、二つの罪は同じである。人生への影響を見るなら、一人から一億円を盗む方が重く見える。侵害された人の数を見るなら、一億人から一円を盗む方が重い。計画性を見るなら、気づかれない金額を計算し、大量の人間から少しずつ奪う犯罪は、非常に悪質に見える。社会の信頼への影響を見るなら、誰も安全に預金や決済を利用できなくなるため、被害は盗まれた一億円を超えて広がる。

 つまり、最初の問いには、すぐに一つの答えを出すべきではない。二つの罪は、同じ方向に並んでいるのではなく、違う方向へ伸びているからである。一人から一億円を盗む者は、一人の人生を破壊する。一億人から一円を盗む者は、一億人の権利を軽く扱い、社会の無関心を利用する。前者は、被害の深さにおいて恐ろしい。後者は、被害の広さと、犯罪を見えなくする仕組みにおいて恐ろしい。

 どちらが罪深いかを考えるためには、まず「罪深い」とは何を意味するのかを決めなければならない。苦しませた量なのか、奪った金額なのか、無視した人間の数なのか、壊した人生の大きさなのか。問いを細かく分けるほど、簡単だったはずの比較は難しくなる。

 しかし、その難しさこそが重要である。罪は、金額のように一列へ並べられるとは限らない。同じ一億円でも、奪い方が違えば、壊れるものも変わる。犯罪を見るとき、本当に問うべきなのは「いくら盗んだか」だけではない。「誰から、どのように、何を奪ったのか」なのである。

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