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遺伝子操作でこれから生まれる子どもを眉目秀麗の黒髪ロングにしてはいけないの? 哲学的な問い29
第一章 絶対に黒髪ロングの眉目秀麗に生まれる方が幸せだよね?
これから生まれてくる子どもの外見を、ある程度まで自由に決められる時代が来たとする。目の形、鼻の高さ、肌の色、髪の色、身長、体格まで、両親が希望を出せる。もちろん手術ではない。受精卵の遺伝子を調整し、生まれた瞬間から、その特徴を備えているのである。危険な副作用はなく、寿命にも健康にも悪影響はない。費用も、一般的な家庭が少し貯金すれば払える程度だとしよう。
ある夫婦は、これから生まれる娘を、黒髪ロングの眉目秀麗な女性にしたいと考えた。黒く艶のある髪、左右の釣り合った顔立ち、澄んだ目、整った鼻、健康的な肌を持つよう、遺伝子を調整するのである。夫婦は贅沢を望んでいるつもりはない。ただ、娘が外見のことで苦しまないようにしたいだけだ。
「どうせ生まれるなら、美しく生まれた方が幸せでしょう」
母親はそう言う。父親も反対しない。容姿がよい人間は、他人から親切にされやすい。学校では人気者になりやすく、恋愛でも有利で、就職活動でも好印象を持たれやすい。外見だけで人生のすべてが決まるわけではないが、外見が人生に何の影響も与えないと言うのも、白々しい。
美しい顔を与えることができるのに、あえて与えない理由があるだろうか。親は子どもに、栄養のある食事を与える。虫歯になれば歯医者へ連れていき、歯並びが悪ければ矯正を受けさせる。勉強が苦手なら塾へ通わせ、運動不足ならスポーツを勧める。子どもの未来を少しでも有利にするため、親は時間と金を使う。それなら、生まれる前に美しい顔を与えることも、同じ親心ではないのか。
たとえば、二つの選択肢があるとする。一つは、娘が容姿について悩む可能性のある人生である。もう一つは、娘が誰からも美しいと言われ、自分の顔を隠さずに生きられる人生である。他の条件がまったく同じなら、後者を選ぶ方が娘のためになるように思える。美貌を与えないことは、避けられたはずの苦しみを、わざわざ残すことではないだろうか。
ここで「人間は外見ではない」と反論したくなるかもしれない。たしかに、人間の価値は顔だけでは決まらない。しかし、人間の価値と、人間が受ける扱いは別の問題である。価値が平等であっても、扱いは平等ではない。社会が外見で人を判断する以上、親が子どもに有利な外見を与えようとするのは、現実的な防衛にも見える。
いじめのない学校を作ることは難しいが、いじめられにくい特徴を子どもに与えることはできる。外見で人を差別しない社会を作るには何十年もかかるが、美しい顔は出生前に準備できる。社会を変えるより、子どもの身体を変える方が早い。少なくとも、その子が大人になるまでの時間には間に合う。
しかし、この考え方には奇妙なところがある。外見で人を差別する社会が悪いと知りながら、その社会で有利になる外見を子どもに与えようとしているからである。それは差別から子どもを守る行為であると同時に、差別の基準を受け入れる行為でもある。
背の低い人が不利なら、子どもを高身長にする。太りやすい人がからかわれるなら、太りにくい体質にする。目が小さい人が美しくないと見なされるなら、目を大きくする。そうして親たちが、社会で評価される特徴ばかりを選び始めたら、評価されない特徴を持つ人々は、ますます少なくなる。
やがて、珍しくなった特徴は、単なる個性ではなくなるかもしれない。「なぜ両親は直してくれなかったのか」と本人が責められるようになる。外見を選べなかった時代には、容姿は運だった。しかし外見を選べる時代には、容姿は親の責任になる。
ある少年が、生まれつき低い鼻を持っていたとする。クラスメートは、彼の鼻を見てこう言うかもしれない。
「遺伝子調整をしなかったの?」
少年は何も悪くない。両親も、自然なまま生まれてほしいと願っただけかもしれない。それでも少年は、必要な処置を受けさせてもらえなかった子どものように扱われる。かつては偶然だった特徴が、親の怠慢の証拠に変わるのである。
では、全員が美しくなれば問題は解決するだろうか。誰も容姿で悩まず、誰も外見で差別されないなら、それはよい社会に思える。しかし、美しさはしばしば、他人との比較によって成立する。全員が同じように整った顔を持てば、その中でさらに細かな違いが探されるだろう。目の色、声、身長、肌のきめ、表情、歩き方まで、競争の基準は移動していく。
遺伝子操作によって、外見の競争が終わるとは限らない。競争に参加するための費用が高くなるだけかもしれない。昔は服や化粧や髪型で競っていたものが、生まれる前の遺伝子調整へ移る。親は子どもが不利にならないよう、より多くの特徴を注文する。美しさは贈り物ではなく、入場料になる。
それでも、黒髪ロングの眉目秀麗に生まれること自体が、不幸だとは言えない。美しく生まれた子どもが、必ず苦しむわけでもない。問題は、美しさそのものではなく、その美しさに込められた親の期待にある。
娘が成長し、十五歳になったとする。彼女は黒髪を短く切り、金色に染めたいと言い出した。両親は驚く。遺伝子調整によって得られた髪は、健康で、太く、艶があり、誰もが褒める美しい黒髪だった。
「せっかくきれいな髪に生んだのに」
母親は、つい口にしてしまう。その言葉を聞いた娘は、自分の髪が自分のものではないように感じる。髪は身体の一部だが、黒髪ロングという姿は、両親が彼女に与えた役柄でもあったからだ。
黒髪は遺伝子で決められるかもしれない。しかしロングであり続けるかどうかは、本人が決めることである。髪を伸ばすこと、切ること、染めることは、その人が自分の身体を使って行う選択だ。親が「黒髪ロングの娘」を望むとき、親は髪質だけでなく、その子が将来どのような姿で生きるかまで想像している。
ここで、子どもに能力を与えることと、子どもの生き方を決めることの違いが現れる。丈夫な髪を与えることは、髪型の選択肢を増やすかもしれない。しかし、黒髪ロングでいることを期待するなら、選択肢は狭くなる。親から見れば贈り物でも、子どもから見れば、身体に刻まれた注文書になりうる。
美しい顔についても同じである。娘が鏡を見るたび、そこに映るのは自分の顔である。しかし、その顔は両親がカタログから選んだものでもある。誰かに「きれいだね」と褒められたとき、娘は素直に喜べるだろうか。それとも「褒められているのは私ではなく、両親が選んだ設計ではないか」と考えるだろうか。
もちろん、自然に生まれた人間の顔も、自分で選んだものではない。両親から偶然受け継いだ遺伝子によって決まる。偶然に決まった顔と、意図的に選ばれた顔の間に、どれほど大きな違いがあるのだろう。
違いがあるとすれば、そこに期待が含まれていることである。偶然に受け継いだ黒髪を切っても、遺伝への裏切りとは言われない。しかし、両親が費用を払い、目的を持って与えた黒髪を切れば、贈り物を粗末にしたと受け取られるかもしれない。設計された特徴は、単なる身体ではなく、親子の関係の中で意味を持つ。
親は、子どもの幸福を願う。その願い自体は悪くない。むしろ、子どもが苦しまないようにしたいと考えるのは、自然な愛情である。だが、幸福を願うことと、幸福の形を決めることは同じではない。
黒髪ロングの眉目秀麗な女性が幸せになるとは限らない。反対に、そのような外見が不幸を招くとも限らない。問題は、子どもが幸福になるための条件を整えることと、子どもに幸福の完成図を押しつけることの境界にある。
遺伝子操作によって美しい子どもを生むことは、一見すると、親から子どもへの親切に見える。しかし、その親切は、子どもが別の姿を選んだ瞬間に、不満へ変わる可能性を持っている。親が本当に与えたいものは、美しい顔なのだろうか。それとも、美しい顔によって得られると信じている人生なのだろうか。
もし後者なら、遺伝子操作は身体を整える技術ではない。親が子どもの人生へ、あらかじめ題名をつける技術である。
絶対に黒髪ロングの眉目秀麗に生まれる方が幸せだという言葉は、子どもの幸福を心配しているように見える。だが、その言葉の中には、どのような人間が幸福になれるかを、親がすでに知っているという思い込みが隠れている。
生まれてくる子どもは、親が想像した理想の人物になるとは限らない。美しい顔を嫌うかもしれず、黒髪を染めるかもしれず、誰からも見られない場所で静かに暮らしたいと願うかもしれない。親の仕事は、その可能性を消すことではない。
子どもに与えるべきなのは、幸福の完成品ではなく、幸福を自分で選び直せる余地なのかもしれない。
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