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一番優秀な研究者に一番研究予算を与えるべき? 哲学的な問い31
第一章 もし一番優秀な研究者がいると仮定してみよう
ここに、一番優秀な研究者がいると仮定してみよう。ただし、優秀さの意味をめぐる面倒な議論は、ひとまず脇へ置く。その人物は、誰よりも深い知識を持ち、誰よりも正確な実験を行い、与えられた予算から最大の成果を引き出すことができる。専門家も政府も市民も、その人物が一番であることに異論を唱えない。昨日までの実績だけではなく、これから生み出す成果についても、ほぼ確実に他の研究者を上回ると分かっている。
現実には、そんな人物を見つけることは難しい。しかし、思考実験では、現実にある霧をいったん取り除くことができる。誰が優秀なのか分からないから配分に迷うのではなく、誰が優秀なのか分かっていても、それでも予算を集中させるべきではないのか。この問いを先に考えることで、研究費配分をめぐる問題の骨組みが見えてくる。
たとえば、未知の感染症が広がっているとする。研究者には百億円の予算が用意されている。一番優秀な研究者に百億円を与えれば、半年後に治療薬が完成する。二番目の研究者に与えれば、一年かかる。十人へ十億円ずつ配れば、誰も必要な設備を整えられず、治療薬は完成しない。この条件であれば、一番優秀な研究者へ全額を渡すべきだという結論は、かなり強い説得力を持つ。
研究費は、研究者の人格を称賛するための賞金ではない。知識や技術を生み出すための資源である。限られた資源から、より大きな成果を得られる人がいるなら、その人へ多く配ることは合理的に見える。百万円を渡して百万円分の成果を生む人と、同じ百万円から一千万円分の成果を生む人がいるなら、後者へ予算を集中させた方が社会全体の利益は増える。
この考え方は、農地の使い方に似ている。同じ面積の土地でも、作物がよく育つ場所と、ほとんど育たない場所がある。食料が不足しているとき、収穫量の多い土地へ種や肥料を集めるのは不自然ではない。すべての土地に同じ量を配ることは、平等ではあっても、飢えを減らす方法として正しいとは限らない。
もちろん、研究者を農地のように扱うことには抵抗がある。研究者は人間であり、希望を持ち、失敗し、成長する。一度の評価によって可能性を閉ざされるべきではない。しかし、限られた予算を配るという場面では、誰かに多く渡せば、別の誰かに渡る額は少なくなる。研究費配分は、善意だけでは解決できない。全員を応援したいと思っても、予算が有限である以上、何らかの選択が必要になる。
では、能力に応じた配分は不公平なのだろうか。一番優秀な研究者に一番多くの予算を与えれば、研究者の間には大きな格差が生まれる。しかし、配分の公平さは、全員が同じ金額を受け取ることだけを意味しない。異なる成果を生み出す人に、異なる量の資源を与えることも、一つの公平だと考えられる。
病院では、すべての患者に同じ治療をすることが公平ではない。軽い擦り傷の患者と、緊急手術が必要な患者には、異なる人員と設備が割り当てられる。学校でも、すべての生徒に同じ説明を一度だけ行えば公平だとは限らない。理解に時間が必要な生徒には、追加の説明が必要になる。公平とは、機械的に同じものを配ることではなく、目的に応じて違いを認めることでもある。
研究費の場合、その目的は何だろうか。研究者を平等な生活状態にすることが目的なら、均等配分がふさわしいかもしれない。しかし、新しい知識を生み出し、病気を治し、災害を防ぎ、社会の理解を深めることが目的なら、成果を多く生み出せる場所へ多く配る方が目的にかなっている。
一番優秀な研究者への集中投資を支持する考え方の背後には、功利主義的な発想がある。功利主義は、行為や制度を、それが生み出す利益や幸福によって評価する。一部の研究者が不満を感じても、集中投資によって多くの命が救われるなら、その配分は正当化できる。配分そのものの美しさではなく、配分によって起きる結果を見るのである。
たとえば、ある研究者が、少額の研究費でも毎年優れた論文を発表しているとする。別の研究者は、多額の予算を与えられても成果を出せない。二人に同じ予算を配ることは、表面上は公平に見える。しかし、社会から集めた税金を使う以上、成果を生み出せない配分を続けることにも説明が必要になる。
研究費は空から降ってくるわけではない。納税者が働いて得たお金や、企業が活動して得た利益の一部が使われている。そこには、別の用途へ使う可能性もあった。学校の修理、道路の整備、福祉サービス、防災設備にも使えたはずのお金を、研究へ回している。そのため研究費を配る側には、なぜその研究者を選んだのかを説明する責任がある。
「一番成果を出せる人物だから、一番多く配った」
この説明は、単純で強い。少なくとも、誰に配ったのか分からず、成果も確認できない制度よりは、納得しやすい。一番優秀な研究者に一番の予算を与えるという原則は、能力主義の研究版だと言える。努力し、成果を積み、能力を証明した人が、さらに大きな仕事を任される。スポーツで速い選手が代表に選ばれ、演奏の上手な奏者が独奏を任されるように、研究でも優れた者が大きな予算を任される。
能力主義には、競争を促す働きもある。成果を出せば研究費が増えるなら、研究者はより良い研究を目指すだろう。限られた予算を奪い合う競争は厳しいが、競争によって研究の質が上がる可能性もある。全員に同じ予算が自動的に与えられる制度では、成果を出しても出さなくても扱いが変わらず、努力への動機が弱まるかもしれない。
さらに、大規模な研究では、予算の集中そのものが必要になる。巨大な望遠鏡、粒子加速器、スーパーコンピューター、宇宙探査機は、少額の予算を広く配っても完成しない。百人が小さな望遠鏡を持つより、一つの巨大望遠鏡を共同で使う方が、遠い宇宙を観測できることもある。ここでは、集中は格差を作る悪ではなく、研究を成立させる条件である。
もし一番優秀な研究者が、巨大な設備を最も有効に使える人物でもあるなら、集中投資への反対はさらに難しくなる。資金を分散させることで、誰も目的を達成できなくなるなら、平等な失敗より、不平等な成功を選ぶべきだという議論が成り立つ。
とはいえ、ここまでの話には、大きな仮定が含まれている。一番優秀な研究者が誰か分かること、その人物が今後も優秀であり続けること、予算を増やせば成果も増えること、その研究成果が社会にとって価値を持つこと。この条件がすべて満たされているからこそ、集中投資は強く正当化されている。
逆に言えば、どれか一つでも崩れれば、結論は揺らぐ。一番優秀だと思われた研究者が、実は優秀な共同研究者に支えられていただけかもしれない。過去の成功に固執し、新しい発想を受け入れられなくなっているかもしれない。十億円までは有効に使えても、百億円を管理する能力はないかもしれない。
それでも、この段階で集中投資を簡単に否定してはいけない。研究費を平等に配るべきだという直感も、一番優秀な人物に多く配るべきだという直感も、それぞれ理由を持っている。大切なのは、どちらかを善、どちらかを悪と決めることではない。どの条件なら集中が正しく、どの条件なら分散が正しいのかを見極めることである。
一番優秀な研究者に一番多くの予算を与えるべきだという考えは、冷酷な思想に見えることがある。しかし、その予算によって治療薬が早く完成し、多くの人が助かるなら、集中しないことの方が冷酷かもしれない。研究者の間の平等を守るために、患者を長く待たせることが許されるのかという問いが生まれる。
一方で、一番優秀という言葉を口にした瞬間、別の問いも生まれている。誰がその順位を決めたのか。論文数なのか、発見の大きさなのか、社会への貢献なのか。現在の一番は、未来の一番でもあるのか。そもそも、異なる分野の研究者を一つの順位に並べることは可能なのか。
思考実験の世界では、一番優秀な研究者は明らかだった。しかし、現実の研究制度へ戻れば、その人物の輪郭は急にぼやける。集中投資の論理が間違っているのではない。集中先を決めるための知識が、私たちには不足しているのである。
研究費配分の難しさは、お金が足りないことだけにあるのではない。未来の成果を、現在の時点で評価しなければならないことにある。研究費は、完成した成果を買う代金ではない。まだ存在しない知識に対して、先に差し出す賭け金である。
もし本当に一番優秀な研究者が分かり、その人物が最も大きな成果を生み出せるなら、一番多くの予算を与えることには十分な理由がある。しかし現実には、最初の一歩でつまずく。一番優秀とは、いったい何を意味するのだろうか。
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