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正しい人の独裁は許されるの? 哲学的な問い32

正しい人の独裁は許されるの? 哲学的な問い32
正しい人の独裁は許されるの? 哲学的な問い32

第一章 もし正しい人が存在すると仮定しよう

 ある国に、絶対に判断を間違えない人物が現れたとする。その人物は、未来を完全に予知できるわけではない。しかし、利用できる情報を正確に読み、人々の利益を公平に考え、私欲によって判断を曲げることがない。賄賂を受け取らず、家族や友人を優遇せず、名声にも執着しない。政策を決めるときには、現在の人気ではなく、十年後や百年後の社会まで考える。

 ここでは、そのような人物が本当に存在するかどうかを、すぐには問題にしない。現実にはありえない、と片づけてしまえば、問いの核心に触れられないからである。完全に正しい人が存在すると仮定したうえで、その人物による独裁は許されるのかを考えてみよう。

 国では、深刻な感染症が広がっている。議会では、外出を制限するべきだという意見と、経済活動を守るべきだという意見が対立している。討論は何週間も続き、その間にも病人は増え、店は倒産していく。選挙を気にする政治家は、有権者に嫌われる政策を避けようとする。専門家同士も意見が割れ、テレビでは刺激的な発言ばかりが取り上げられる。

 正しい人は、必要な制限の範囲と期間を正確に判断できる。どの地域を閉鎖し、どの産業を支援し、いつ制限を解除すればよいかも分かっている。その人物にすべての決定を任せれば、感染者も失業者も最小限に抑えられる。議会で議論するよりも早く、国民投票を行うよりも正確に、危機を終わらせられる。

 それでも選挙や議会にこだわる必要があるのだろうか。

 この場面だけを見れば、独裁は合理的に見える。船が嵐に入ったとき、乗客全員で進路について投票するより、優れた船長に判断を任せた方がよい。手術中の医師も、患者の家族に一つずつ多数決を求めたりしない。火災現場の消防隊では、全員が自由に行動するより、指揮官の命令に従う方が多くの命を救える。

 政治も同じではないか。国家が巨大な船であり、危機が嵐であるなら、最も優れた人物に舵を預けるべきではないか。間違った多数決より、正しい一人の判断を選ぶ方が、人々を幸福にできるのではないか。

 この考え方は、独裁を乱暴な欲望としてではなく、善意ある合理性として捉えている。独裁者が悪人だから危険なのではない。政治には正しい答えがあり、その答えを知る人物がいるなら、全員で迷う必要はないという発想である。

 たとえば、百年後に大洪水が起きることが確実に分かっているとする。被害を防ぐには、現在の都市を移転させ、巨大な堤防を建設しなければならない。しかし工事には莫大な税金が必要であり、住民の多くは移転を拒む。現在の有権者にとって、大洪水は遠い未来の話である。選挙で選ばれる政治家は、百年後の安全より、来年の減税を約束した方が当選しやすい。

 正しい人は、反対を押し切って都市を移転させる。家を失う人には十分な補償を与えるが、計画そのものを拒否する権利は認めない。住民は怒り、政府を冷酷だと非難する。それでも百年後、大洪水が起き、旧市街は水の底に沈む。移転した都市では、誰一人として命を失わない。

 この場合、独裁者は住民の自由を奪った。しかし同時に、未来の住民の命を救っている。もし民主的な手続きに従って計画を中止していたなら、多くの人が死んでいた。結果だけを見るなら、強制は正しかったことになる。

 ここで問題になるのは、独裁が暴力的かどうかではない。国家の命令には、程度の差はあっても強制が伴う。税金を払わなければ財産を差し押さえられ、法律に違反すれば処罰される。民主国家も、国民にお願いだけをして運営されているわけではない。独裁だけが強制を用い、民主主義は純粋な自由を守るという単純な対立ではないのである。

 重要なのは、誰が何を決め、その決定を誰が止められるかである。

 正しい人による独裁では、決定内容は正しい。しかも本人は善良であり、反対者を苦しめることに喜びを感じたりもしない。必要以上の監視や処罰は避け、可能なかぎり穏やかな方法を選ぶ。それでも最終的には、自分の判断を他人に従わせる。国民が反対しても、判断を変える義務はない。

 すると、奇妙なねじれが生じる。人々は正しい政策によって幸福になるが、その政策を自分たちで選んだわけではない。病気は減り、経済は成長し、教育の質も上がる。しかし国民は、政治の結果を受け取るだけの存在になる。国家は立派に運営されているのに、市民は国家の運営者ではなくなる。

 優秀な親が、子どもの人生をすべて決める場面を考えると分かりやすい。親は、どの学校に行けば能力が伸び、誰と付き合えば傷つき、どの仕事を選べば幸福になれるかを正確に知っている。子どもが反対しても、親は正しい選択を強制する。実際、子どもは将来成功し、健康で、経済的にも安定した生活を送る。

 それなら、その親の支配は正しかったのだろうか。

 子どもが選んだ道では失敗していたとしても、本人が選ぶ機会を奪ったことは残る。幸福な人生を与えることと、その人生を自分のものとして生きさせることは、完全には一致しない。人間は、幸福という商品を受け取る容器ではない。何を幸福と考え、どの危険を引き受け、何を後悔するかを決める主体でもある。

 政治にも同じ問題がある。正しい独裁者は、国民に良い結果を与えられる。しかし国民を、正しい結果の受益者に変えてしまう。そこでは、市民は政治の著者ではなく、よくできた物語の登場人物になる。

 ただし、ここで独裁を急いで否定することもできない。自分で決める権利が大切だとしても、その権利によって他人を危険にさらしてよいとは限らない。感染症にかかった人が、自由を理由に満員電車へ乗れば、他人の命を脅かす。工場が自由を理由に有毒物質を川へ流せば、下流の住民が被害を受ける。個人の選択は、ときに本人だけでは終わらない。

 自由には責任が伴うという言葉は、便利すぎて少し怪しい。責任を強調する人ほど、自分が他人の自由を管理する側に立ちたがることがあるからである。それでも、自由が他人への影響から切り離せないことは事実である。政治は、互いに無関係な個人を扱うのではなく、選択が衝突する社会を扱う。

 正しい人は、その衝突を完全に調整できる。誰の自由をどこまで制限すれば、全体として最も良い状態になるかを知っている。誤った規制を行わず、必要な規制をためらわない。弱者を切り捨てず、多数者の人気にも迎合しない。

 そう考えると、正しい独裁は、かなり魅力的である。

 民主主義では、事実を知らない人も一票を持つ。気分や偏見で投票する人も、専門家と同じ一票を持つ。政治家は、正しいが不人気な政策より、間違っていても人気のある政策を選ぶことがある。議会は対立し、決定は遅れ、責任の所在も曖昧になる。

 独裁者が本当に正しいなら、こうした欠点をすべて避けられる。選挙運動に金を使う必要もなく、野党との取引も必要ない。国民の怒りを恐れて、必要な改革を先送りすることもない。正しい税率を定め、正しい教育制度を作り、正しい外交判断を下す。

 ここまで条件を整えれば、独裁に反対する理由は、かなり弱く見える。正しい判断を邪魔するために議会を置き、正しい人物を引きずり下ろすために選挙を行うのは、愚かにも思える。壊れていない時計を、二時間ごとに分解して点検するようなものだ。

 しかし、この仮定には一つの重要な仕掛けがある。

 正しい人が存在することと、その人に支配する権利があることは、まだ同じではない。

 ある数学者が、誰よりも正確に計算できるとしても、国民の職業を決める権利までは得ない。ある医師が、健康について常に正しいとしても、すべての食事や運動を命令する権利が生じるわけではない。知識が優れていることは、助言する理由にはなる。しかし命令する資格まで、自動的に生み出すとは限らない。

 正しい独裁を考えるとき、最初に区別しなければならないのは、判断の正しさと支配の正しさである。政策が正しいことは、その政策をどのような手続きで決めてもよいことを意味しない。良い結果が出ることは、人々を従わせる関係まで正当化するとは限らない。

 正しい人の独裁は、悪い結果を生むから危険なのではない。むしろ、良い結果を生むからこそ、問いは深くなる。明らかな暴君であれば、反対する理由は簡単である。だが、国を豊かにし、人々を救い、未来の危機まで防ぐ支配者に対して、それでも自由を求める理由は何なのか。

 この問いに答えるには、民主主義を、正しい政策を選ぶ競技としてだけ考えてはならない。自由を、好き勝手に行動する権利としてだけ捉えてもならない。政治が人間にとって何であり、人が国家の一員であるとはどういうことかを考える必要がある。

 正しい人は、私たちの代わりに正解を選べるかもしれない。しかし、私たちの代わりに生きることはできない。

 独裁の問題は、支配者が正しいかどうかだけではない。正しい答えを持つ者と、自分の人生を持つ者が向き合ったとき、最後に決定するのは誰であるべきか。その問いが、ここから始まる。

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