文学・思想の一丁目一番地
田舎が存在しない都会って存在するの? 哲学的な問い33
第一章 もしも日本が新宿だけになったら?
もしも明日の朝、日本中の風景が新宿になっていたら、何が起こるだろう。北海道にも四国にも沖縄にも、高層ビルと雑居ビルが並び、地下には鉄道と地下街が張り巡らされている。山も田畑も漁港もなく、どこまで歩いても家電量販店、居酒屋、銀行、映画館が続いている。日本から田舎が消え、すべての場所が都会になったのである。
最初の一日は、意外なほど普通に始まるかもしれない。コンビニには弁当が並び、蛇口から水が出て、電車も時刻表どおりに走る。人々は会社へ向かい、昼にはラーメンを食べ、夜には明るい看板の下を歩く。田舎がなくても困らないではないかと、多くの人が思うだろう。
だが、コンビニの棚に並んでいるおにぎりは、新宿の床から生えてきたものではない。米は田んぼで育ち、海苔は海で養殖され、鮭は漁港から運ばれてくる。容器のプラスチックには原料があり、包装工場があり、それを運ぶ道路と倉庫がある。都会の店頭に商品が現れるまでには、都会の外に広がる無数の場所が必要になる。
日本が新宿だけになった翌日、棚の商品は少しずつ減り始める。商品を補充しようとしても、新しい弁当を作るための農地がない。牛を育てる牧場もなく、魚を水揚げする港もない。ビルの屋上で野菜を作ることはできるが、一億人を養う量にはならない。巨大な屋内農場を建てるとしても、照明を動かす電力、肥料の原料、設備を作る金属が必要になる。
水にも同じ問題がある。都会では、蛇口をひねれば水が出るため、水は水道管の中で生まれているように感じられる。実際には、雨が山や森林に降り、川やダムへ集まり、浄水場を通って都市へ送られている。新宿だけの日本には水道管はあっても、水を受け止める山がない。水を使う場所だけが残り、水が生まれる場所が消えている。
電気もビルのコンセントから発生しているわけではない。発電所には広い土地が必要であり、送電線や燃料の保管場所も要る。太陽光発電なら屋上を使えるが、夜には発電できない。風力発電なら高いビルの間に風車を置けそうだが、強風の日には少し怖い。新宿駅の改札前で巨大な風車が回っていたら、待ち合わせ場所としては便利かもしれない。発電設備は景観の問題ではなく、都市の外部をどれだけ必要とするかという問題である。
三日目になると、ごみが目立ち始める。新宿だけの日本には、商品を買う場所と食べる場所は無数にあるが、ごみを捨てる場所がない。ごみ収集車は袋を積み込み、処理場へ向かおうとする。しかし、どの方向へ走っても新宿が続いている。燃やす場所を作れば、その周囲には煙や臭いが生まれる。埋め立てようとしても、埋め立て地にできる海岸がない。
都会が清潔に見えるのは、ごみが存在しないからではない。ごみが素早く視界の外へ運ばれるからである。駅前の歩道から空き缶が消えるとき、空き缶そのものが消滅したわけではない。誰かが拾い、車に積み、別の場所へ運んでいる。都会の清潔さは、汚れをなくす能力より、汚れを遠くへ移す能力によって支えられている。
新宿だけの日本では、遠くが存在しない。負担を置く場所、騒音を引き受ける場所、危険な設備を建てる場所がない。発電所もごみ処理場も食料工場も、百貨店や高級マンションの隣に置かなければならない。都市の表側と裏側が、一枚の風景の中に並ぶことになる。
ここで奇妙なことが起こる。人々は、新宿の一部を農地に変え始める。雑居ビルを壊して畑を作り、地下駐車場をキノコ栽培場にし、道路の一部を物流倉庫にする。水を蓄える区域、発電設備を置く区域、ごみを処理する区域も必要になる。やがて新宿の中に、店や会社が集まる中心部と、生産や処理を担う周辺部が生まれる。
その周辺部は、高層ビルに囲まれているかもしれない。そこで働く人も、地下鉄に乗り、スマートフォンを使っているだろう。それでも、中心部から見れば、その場所は都会を支える外部として扱われる。地価は低く抑えられ、騒音や臭いを引き受け、華やかな施設から遠ざけられる。日本から田舎を消したはずなのに、新宿の内部に新しい田舎が作られるのである。
つまり、田舎とは木造住宅や田んぼがある場所だけを指すのではない。食料を作り、資源を供給し、都市が出した負担を受け止める場所も、都市に対する田舎の役割を持っている。見た目が都会でも、中心を支える周辺として扱われれば、その場所は機能的な田舎になる。
反対に、都会も高層ビルの数だけでは決まらない。都会とは、多くの物、人、情報を外部から集められる場所である。新宿が便利なのは、新宿の中ですべてを作っているからではない。全国や海外から商品と労働力を集め、必要のないものを別の場所へ送り出せるからである。
一杯のラーメンを考えてみる。麺には小麦が要り、スープには豚や鶏、魚介、野菜が使われる。丼を焼く工場があり、箸を作る工場があり、食材を冷やして運ぶ車がある。店員が早朝に店を開け、清掃員が床を磨き、下水施設が使い終えた水を処理する。都会の小さな店の中には、遠く離れた土地と労働が折り畳まれている。
都会で暮らしていると、その折り畳まれた部分が見えにくい。米は袋に入り、水は蛇口から出て、電気はスイッチを押せばつく。便利さとは、複雑な過程を意識しなくても暮らせる状態である。だが、過程が見えなくなったからといって、依存がなくなったわけではない。むしろ都会は、強く依存しながら、自立しているように見える場所だと言える。
新宿だけの日本という思考実験は、都会が単独では成立しないことを明らかにする。都会は田舎から食料を受け取り、山や川から水を受け取り、地方や海外の発電所から電気を受け取る。そして、ごみや排熱や危険な作業を、自分の中心部から遠ざけている。
もし田舎を完全になくせば、都会は自分の内部に田舎の機能を作らなければならない。その瞬間、都会だけの世界は終わる。中心と周辺、生産と消費、表側と裏側が再び分かれ、場所どうしの違いが生まれるからである。
新宿は、新宿だけでは光れない。夜の看板を輝かせる電気も、飲食店の皿に載る食材も、地下街を歩く人々の生活も、新宿ではない場所につながっている。都会の光が強いほど、その光を支える土地は広くなる。
田舎が存在しない都会を想像すると、最後には二つの可能性しか残らない。都会が食料も水も電気も失い、短期間で崩壊するか、都会の内部に生産地と周辺部を作り、新しい田舎を生み出すかである。どちらの場合も、都会だけが単独で存在し続けることはできない。
では、都会と田舎は、最初から別々のものではないのかもしれない。都会の中には田舎が入り込み、田舎の中にも都会の制度や商品が入り込んでいる。私たちが都会と呼んでいるものは、田舎を消した場所ではなく、田舎とのつながりを見えにくくした場所なのではないだろうか。
哲学的な問い一覧に戻る
うしPのページに戻る