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ゲーム史入門ディケイド3 2000~2009年

第一章 2000年以前の地形図――日本のゲーム史がゼロ年代へ渡したもの

 2000年という折り目に向けて、日本のゲームはすでに二つの大きな基盤を整えていた。ひとつは、家庭のリビングに定着したコンソール(据え置き型ゲーム機)の巨大な市場と、そこに集まるサードパーティ(本体メーカー以外のソフトメーカー)群の厚み。もうひとつは、アーケードと携帯ゲームという「外の遊び場」が生み出したコミュニティと競争の文化である。ゼロ年代に入ると、オンライン接続や高精細映像、そしてサービス運営型のゲームが急速に伸びるが、その跳躍は80〜90年代の積み重ね抜きには語れない。

 まず80年代末までの「家庭にゲームがやって来る」過程を振り返る。1978年の『スペースインベーダー』に端を発したアーケード隆盛の熱を受けて、1983年に任天堂ファミリーコンピュータが登場し、日本では家庭用ゲームが日用品化していく。テレビの前に家族が集まり、友だちの家でコントローラーを回す。その体験を支えたのは、横スクロールアクションの完成形を示した『スーパーマリオブラザーズ』(1985)、アクションアドベンチャー(探索+アクション+謎解き)を切り拓いた『ゼルダの伝説』(1986)、そしてRPG(役割を演じながら物語を進めるゲーム)の国民的普及を決定づけた『ドラゴンクエスト』(1986)だった。物語、操作性、音楽、キャラクター商品化までを一体化した「総合パッケージ」は、この時点で日本的な完成度に達している。

 ハードウェアではNECとハドソンのPCエンジン(1987)がCD-ROM(光ディスク型の大容量記録媒体)をいち早く導入し、容量制約に縛られたカートリッジ時代から、声・長尺音楽・アニメ的演出を取り込みやすい時代へ橋を架けた。メガドライブ(1988)、スーパーファミコン(1990)が参入し、国産各社の競争は激化する。ここで重要なのは、音源チップや拡張チップを駆使して「限界を押し広げる」日本の職人的開発文化が育ったことだ。容量や速度という制約の中で、遊びの核(ゲームデザイン)を磨き上げる態度は、のちに高性能機の時代に入っても日本の強みとして生き続ける。

 一方でアーケードは、90年代初頭に対戦格闘の津波を起こす。『ストリートファイターII』(1991)が全国のゲームセンターに「乱入対戦」というライブなコミュニケーションの場を生み、そこに『餓狼伝説』『KOF』『ヴァンパイア』などの系譜が連なる。さらにセガ『バーチャファイター』(1993)がポリゴン(多角形の集合で立体を描く方式)で3D格闘を確立し、ナムコ『鉄拳』(1994)が続く。勝ち負けの即時性、攻略情報の交換、常連同士の暗黙のマナー――アーケード文化はゲームを「ひとり遊び」から「場の文化」へと押し上げ、日本の競技志向や観戦の楽しみの土台を作った。

 90年代半ば、据え置きは第2の転換点を迎える。ソニーのプレイステーションとセガサターン(いずれも1994年)がCD-ROMを標準化し、映像・音楽・長編物語の器を一気に拡張した。ここで開発側に広まっていくのがミドルウェア(物理演算や描画など共通機能を提供する開発部品)である。すべてを1社で自作するのではなく、基盤機能を共有し、リソースを表現へ振り向ける発想は、のちの大規模開発と外注分業の基礎をつくる。NINTENDO 64(1996)はアナログスティック(微妙な角度を検出できるレバー)と3Dカメラ操作を標準化し、『スーパーマリオ64』が3D空間の動線設計と手触りの基準を定めた。ハードごとに思想は違えど、「3Dで世界を作り、カメラを動かし、キャラクターを自然に操る」という体験設計が、ここで日本のユーザーの身体に刻まれる。

 コンテンツ面では、長編RPGとシネマティック演出の融合が進む。『ファイナルファンタジーVII』(1997)はフルCGムービーとプリレンダ背景を駆使して「映画のように見せる」ことの可能性を証明し、同時にメモリーカード(セーブデータを外部に保存する媒体)を通じてプレイの軌跡を携える習慣が広がった。『メタルギアソリッド』(1998)は潜入という文法に物語と演出を密に絡め、ボス戦のギミックで「ゲームならではの演出」を社会に印象づけた。RPG、アクション、アドベンチャー――ジャンルを横断して、語り口と操作の一致を追求する姿勢が、日本のメインストリームで共有されていく。

 携帯機の線も無視できない。ゲームボーイ(1989)は通信ケーブル(本体同士をつなぐ周辺機器)を介した対戦・交換でローカルな遊びの輪を育て、1996年の『ポケットモンスター』が「集める」「育てる」「交換する」を日常会話へ浸透させた。これは後の無線通信・オンライン常時接続時代の予行演習である。外へ持ち出して交わる楽しさは、やがてDSのすれちがい通信、スマートフォンの位置連動型ゲームへと継承される。

 PC文化も日本では独自の歩みをした。PC-9801など国産パソコンの時代には、文字と絵で進むアドベンチャーゲームやシミュレーションが育ち、同人ソフト(個人や小規模チームによる自主制作)と商業の往来が活発だった。Windows 95の普及で開発環境は世界標準に近づき、モデムによるダイヤルアップ接続が家庭に入る。海外で『Ultima Online』(1997)などMMORPG(多数のプレイヤーが同時接続し、1つの世界で冒険するオンラインRPG)が台頭し、日本でもネットゲームへの期待が高まる。ここで決定打となるのが、セガのドリームキャスト(1998、国内)だ。モデム(電話回線を通じてデータを送る通信装置)を標準搭載し、家庭用でオンラインを「普通の機能」として提示した。のちのブロードバンド常時接続、家庭用機での有料サービスへと至る流れの原型は、すでに国内のリビングに置かれていたのである。

 1990年代の終盤、日本市場では「量と質の両立」と「多様な層の共存」が進む。ゲーマー向けの高難度アクション、万人向けのパーティゲーム、子ども中心に広がる育成・交換の遊び、そしてストーリードリブンの長編。週刊誌・専門誌・テレビ番組・おもちゃ売場・玩具菓子まで、クロスメディア展開が当たり前になり、攻略本やコミュニティが知識の流通を加速させた。この「周辺が厚い」状態は、ゼロ年代にソーシャル要素や配信施策が花開く素地になる。ファンはすでに語り、集まり、試し、競い、買い支えることに慣れていた。

 同時に、開発現場にはゼロ年代を予感させる課題も芽生えていた。ポリゴン数の増大、テクスチャ(物体表面の画像)やムービー制作の工数、デバッグの複雑化により、開発費は右肩上がりになる。外注と分業が進み、プロジェクト管理という発想が不可欠になっていく。これらは後のHD世代(高解像度映像を前提にした機種世代)で一段と顕在化し、DLC(追加ダウンロードコンテンツ:発売後に配信される有料/無料の追加要素)やオンラインアップデート(不具合修正・機能追加の配信)といった「発売後も続く開発」へ、産業の働き方を変えていく前提条件になる。

 2000年直前、日本のゲームは三つの川が合流する地点に立っていた。第一の川は、据え置き機で磨かれた3D設計と長編演出。第二は、携帯機とアーケードが育てた「場に出て遊ぶ」「人とつながる」文化。第三は、PCとドリームキャストが提示したオンラインの当たり前化である。ゼロ年代は、この三つを「ネットワーク」と「サービス」という糸で束ね、配信・課金・コミュニティ運営を含めた総合産業へと拡張していく十年になる。本章で確認した日本的な強み――限界まで遊びを磨く設計力、場の文化を生むコミュニティ、周辺を巻き込む総合展開――は、次章以降で登場するPS2、携帯二強、そしてオンライン常時接続の時代に、かたちを変えながら生き続ける。

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