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戸籍破壊論 ぼくたちの政治を語ろうシリーズ1
第一章 そもそも戸籍制度ってなに?
戸籍制度とは何か、と聞かれると、多くの人は「役所にある家族の記録」「結婚したら動くやつ」「本籍地のやつ」くらいの印象で答えるかもしれない。だいたいそれで間違ってはいないのだが、その「だいたい」の中に、この制度の強さと不気味さが両方入っている。戸籍は、単なる名簿ではない。日本という国が、人をどのような単位で把握し、どのような関係を“正式なもの”として認めるのかを記録する装置である。だから戸籍を理解するということは、役所の書類の読み方を覚えることではなく、この国の人間観と家族観の入口に立つことでもある。
まず、戸籍は住民票とは違う。住民票は「いまどこに住んでいるか」という生活の現在地に近い記録であり、引っ越せば移る。いっぽう戸籍は、「その人が法的にどんな身分関係にあるか」を記録する。誰の子として生まれたか、婚姻したか、離婚したか、養子になったか、死亡したか。つまり戸籍は、住所の情報というより、人生の節目を法的な言葉で刻み続ける帳簿である。ここでいう「身分」は、偉い偉くないの身分ではない。法律上の立場や関係のことだ。人は感情で家族になることもあるが、国家は感情を記録できない。だから国家は、出生や婚姻や認知といった“届出可能な事実”を通じて家族を把握しようとする。その形式が戸籍なのである。
ここで重要なのは、戸籍が「個人だけ」を記録する制度ではないという点だ。戸籍は、個人を家族関係の中で記録する。名前だけが単独で並ぶのではなく、誰とどういう関係にあるかが見える形で記載される。これが便利さの源でもあり、同時に問題の源でもある。行政にとっては、親子関係や婚姻関係がまとまって確認できるのは効率がよい。相続や婚姻の手続でも、関係の証明に使える。しかしその反面、人間をまず「個人」として見るのではなく、「どの家族に属しているか」という回路で見る癖を制度の側に作る。戸籍は、ただ事実を写しているだけの鏡ではない。何を重要な事実とみなすかを決める、価値づけの機械でもある。
戸籍という言葉を聞くと、「筆頭者」という語を思い出す人もいるだろう。この言葉がまた誤解を生みやすい。筆頭者は、家の支配者とか絶対権力者という意味ではなく、その戸籍を表示するための先頭に記載される人、という実務上の意味合いが強い。だが、実務上の用語であっても、人は言葉に引っ張られる。「筆頭者」と聞けば、そこに中心があるように感じる。制度の言葉は、現実を整理するだけでなく、現実の感じ方も作ってしまう。戸籍の議論が難しいのは、法律の条文だけでなく、こうした言葉の空気まで含めて人々の生活に染み込んでいるからだ。
また、戸籍には本籍という概念がある。これも住所とは違う。本籍は、現に住んでいる場所である必要はない。極端にいえば、住んだことのない場所を本籍地として持つ人もいる。ここにも戸籍制度の性格が出ている。戸籍は、生活の実態をそのまま記録する制度というより、法的な所属や関係を整理する制度なのである。つまり戸籍は、生活の地図というより、国家が読むための関係図だ。自分の日常にとっては遠い存在のように見えて、婚姻、相続、親子関係の証明といった局面で急に前に出てくる。普段は意識しないが、人生の重要な場面で「あなたは法的にはこういう人です」と言ってくる。その静かな強さが戸籍の本体だと言っていい。
戸籍制度の説明でしばしば見落とされるのは、この制度が「事実の記録」と「法的効果の入口」の両方を担っていることだ。たとえば、結婚しました、子どもが生まれました、離婚しました、という出来事は、当事者の人生では感情と関係の大事件だが、国家にとっては届出と記載の問題でもある。しかもその記載は、単なるメモではない。後の手続、権利関係、証明の前提になる。だから戸籍は、過去を記録する帳簿であると同時に、未来の手続を動かすスイッチでもある。ここを理解しないと、「ただ記録してるだけでしょ」という見方になってしまうし、逆に「すべて戸籍が悪い」という雑な怒りにもなってしまう。戸籍は便利であり、だからこそ強い。強いからこそ、何を固定してしまうのかを問う必要がある。
ここで少し視点を変えると、戸籍制度は「誰が家族か」を国家が公式に把握するための制度だと言える。だが現実の家族は、法律が想定する形だけではない。仲の悪い親子もいれば、長年支え合っているのに法律上は他人のままの関係もある。血がつながっていても実質的には断絶している場合もあれば、血がつながらなくても生活の実態としては家族そのものという場合もある。戸籍はこの複雑さを全部は扱えない。制度だから当たり前だと言えばそれまでだが、問題は、その「扱えないもの」が現代では少数の例外ではなく、かなり広い現実になっていることだ。制度が現実を切り捨てる範囲が大きくなってくると、制度の安定は人間の窮屈さとして感じられるようになる。
それでもなお、戸籍制度は長く使われ続けてきた。理由は単純で、国家と行政にとって合理的だからである。親族関係を証明しやすい。身分関係を公的に確認しやすい。婚姻や相続の場面で法的安定性を保ちやすい。こうした利点は現実にある。ここを無視して戸籍を語ると、議論はすぐに空中戦になる。だからこそ本書では、まず戸籍を悪の親玉のように描くのではなく、「なぜここまで広く使われ、なぜ人々も必要なものとして受け入れてきたのか」を出発点にしたい。そのうえで、いま何が噛み合わなくなっているのかを見ていく。制度の寿命は、善悪だけで決まるのではない。時代との適合不適合で決まる。
要するに、戸籍制度とは、国家が人を家族関係の中で法的に把握し、公証し、人生の節目を記録し、その記録を後の手続と権利関係に接続するための制度である。それは行政の便利さを支える一方で、人間の生を一定の型にはめ込む力も持つ。ここから先、憲法の家族観、婚姻制度、同性婚、生活保護、そしてベーシックインカムまで話を広げていくとき、戸籍は単なる古い紙の制度ではなく、日本社会の深い場所に刺さった結節点として現れてくる。第一章で押さえるべきなのは、戸籍は「ある」だけの制度ではないということだ。戸籍は、人がどう生きるかにまでじわじわ影響する制度なのである。
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