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モザイク破壊論 ぼくたちの政治を語ろうシリーズ2

第一章 そもそもモザイクってどうして存在しているの?

モザイクは、最初から自然にそこにあったものではない。人間の身体に最初から四角いぼかしがついて生まれてくるわけではないし、性そのものが最初から「見えてはいけない」と宇宙の法則に書かれていたわけでもない。モザイクは、ある時代の価値観と、国家の法運用と、産業の自己防衛と、流通の都合と、見る側の「なんとなくそういうものだよね」という慣れが重なって、あとから作られた人工物である。だからまず問うべきなのは、「モザイクがあるのは当然か」ではなく、「なぜ、これを当然と思うようになったのか」だ。

多くの人は、モザイクを見ても驚かない。むしろ、見慣れすぎていて、そこに違和感を持たない。だが、冷静に考えると奇妙な風景である。人間の顔は見えている。感情も見えている。声も聞こえる。文脈も分かる。にもかかわらず、身体のある一部だけが機械的に隠される。そして私たちは、その不自然さに慣れきってしまっている。これは単なる映像処理ではない。社会が「ここから先は見せるな」と線を引いた痕跡であり、私たちがその線引きを内面化した証拠でもある。

ここで大事なのは、モザイクの起源を、単純に「法律があるから」で終わらせないことだ。たしかに法は大きい。国家が「これは取り締まりの対象になりうる」と示すだけで、作り手も売り手も配信側も一気に慎重になる。けれど、現実のモザイクは、法だけでできているわけではない。出版社や制作会社は摘発やトラブルを避けたい。販売店や配信プラットフォームは炎上や規約違反を避けたい。決済会社はリスクを嫌う。広告主は距離を置きたがる。こうして、法の外側にも無数の「見せない理由」が生まれる。結果として、国家が直接命じていない部分まで、社会全体が先回りして隠すようになる。ここにモザイクの本当の強さがある。モザイクは単なる修正ではない。国家と市場と世間の共同作業として成立している。

たとえば、同じ内容でも、ある媒体では通るのに、別の媒体では通らないことがある。紙なら許される表現が、配信では止められる。深夜なら流せるものが、昼間では問題になる。海外ではそのまま流通しているものが、日本向けには修正される。こうした差は、「絶対的に卑猥なもの」が先にあるというより、どのルールの網にかかるか、どの主体が責任を負うかによって決まっていることを示している。つまりモザイクは、道徳の絶対命令というより、管理の技術として発達してきた面が大きいのである。

さらに言えば、モザイクには心理的な効果がある。隠されると、人はそこに意味を感じる。隠されることで、逆に「ここは特別な場所だ」と強調される。禁止の印は、しばしば対象を消すのではなく、対象を際立たせる。学校で「ここは読むな」と言われたページほど気になるのと同じだ。モザイクは、見せないための技術であると同時に、「ここに境界がある」と教え込む教育装置でもある。どこからが逸脱で、どこまでが許容かを、視覚的に反復して覚えさせる。私たちはモザイクを通して、表現物だけでなく、社会の境界線の引き方そのものを学習してしまう。

では、その境界線は誰のものなのか。ここで本書の核心に少しだけ触れておきたい。多くの人は、モザイクの話になると「そんなの一部の業界の話だろう」「自分には関係ない」と思う。しかし、その感覚こそが、モザイクを強くしている。自分に関係ないと思えるからこそ、そこで行われる規制や自主規制の拡張に無関心でいられる。そして、無関心でいられる領域は、しばしば規制の実験場になる。まず擁護されにくいものから締める。次に、やや擁護されにくいものに広げる。最後に、最初は関係ないと思っていた人のところまでやってくる。これは性表現に限った話ではない。政治的風刺でも、少数派の言論でも、芸術でも起こりうる構図だ。

ここで誤解してほしくないのは、すべての境界が不要だと言いたいわけではないということだ。社会には年齢区分も必要だし、同意のない搾取や暴力を防ぐルールも必要である。問題は、必要な保護と、曖昧な統制が、しばしば同じ言葉で語られてしまうことだ。「守るため」と言えば、たいていの人は反対しにくい。だが、何を、誰を、どこまで、どの手段で守るのかを曖昧にしたままにすると、その言葉は簡単に拡張される。モザイクは、その曖昧さの上で長く生き延びてきた制度的習慣でもある。

だから第一歩は、賛成か反対かを急がないことだ。まずは、目の前のモザイクを「自然なもの」としてではなく、「歴史的に作られたもの」「制度と市場と世間が支えているもの」として見直すことだ。その視点を持つだけで、景色は変わる。これまで単なる画像処理に見えていたものが、国家と社会の力関係のしるしとして見えてくる。見え方が変われば、問いの立て方も変わる。「どこまで隠すべきか」ではなく、「なぜ隠すのか」「誰が決めるのか」「その決定はどこまで正当か」と問えるようになる。

本書は、モザイクの有無だけをめぐる本ではない。モザイクを入口にして、私たちが何を恐れ、何を管理し、どこで自由を手放しているのかを考える本である。モザイクは小さな四角いぼかしに見えるかもしれない。しかしその背後には、国家権力、産業構造、道徳感情、世間の同調圧力、そして市民の沈黙が折り重なっている。だからこそ、この話は「関係ない人」にこそ関係がある。あなたがもしモザイクが必要な表現物を作らないとしても、社会がどのように「見せてよいもの」と「見せてはならないもの」を決めているかを知ることは、あなた自身の自由の輪郭を知ることでもある。まずはそこから始めよう。モザイクは、ただそこにあるのではない。私たちの政治の中で、作られ、守られ、慣れさせられてきたのである。

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