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俺の召喚した聖女がなんかおかしい フェザーライトノベル8
第一章 聖女召喚
信号待ち。そうしようと思っていたわけじゃない。誰かに背中を押されて道路に出たような気がした。目の前にトラック。あ、死ぬ。
その瞬間に胸を満たしたのは恐怖じゃなくて、安堵だった。このクソッタレな日常が終わる。明日の朝礼も、終わらないノルマも、上司の「お前は代わりがきく」も、全部まとめて終わる。そう思った途端、身体から力が抜けた。
だがトラックは、俺を避けるようにハンドルを切って通り過ぎていった。遅れてクラクションが耳を殴る。俺は道路の真ん中で取り残され、死なずに生きていることだけがやけに鮮明だった。
——ああ、続くのか。
俺はその場に膝をついた。呼吸の仕方を忘れたみたいに、胸が浅く動く。周りの人が「大丈夫ですか」と言ってる気がしたけど、言葉は遠かった。大丈夫って何だ。俺のどこが。
立ち上がろうとして、足元に落ちているものに気づいた。
一冊の本だ。紙が湿気でふくらみ、背表紙が少し裂けている。表紙には、墨で書いたみたいな渋い文字がどん、と載っていた。
『聖女召喚』
一瞬、官能小説のタイトルかと思った。最近の俺の脳内は、疲労で判断力が死んでいる。だが、ページをめくると中身は拍子抜けするほど真面目だった。字体は古い。ところどころに手書きの注釈があり、「血を用いるな」「代用品可」とか、物騒なのに生活感のあるメモが見える。
俺はその文字を見て、妙な確信を覚えた。
これは……俺にも読める。
読める、じゃない。理解できる、という感覚だった。就業規則よりも、業務フローよりも、社内の“空気”よりも、ずっと素直に頭に入ってくる。人間の作った地獄のルールより、異世界の魔法の方がよっぽど優しいのは、どういう皮肉だ。
家に帰った。いつもの、狭いワンルーム。玄関に脱ぎ捨てた革靴は、つま先が擦り減っていた。洗濯物は干しっぱなしで、部屋の隅に湿った匂いが溜まっている。
俺は机の上に『聖女召喚』を置き、コンビニの冷めた弁当を半分残して、ページをめくった。
そこには、異世界から“聖女”を呼び出し、その力を借りる方法が書かれていた。
聖女——癒やし、浄化、加護、そして「人を生かす」力。召喚者は対価を払い、契約を結び、一定時間だけその奇跡をこの世界に引きずり込む。
読み進めるほどに、俺の頭の中でひとつの文が太くなっていく。
よし、できる。
できるはずだ。いや、できる。根拠はない。でも、根拠のあることはもう全部やった。努力、根性、睡眠削り、報連相、媚び、謝罪。全部やって、なお人生は改善しなかった。なら、次は根拠のない方に賭けていいだろう。俺の人生は、合理的に破綻している。非合理で帳尻を合わせるしかない。
そう思ったところで、睡魔が落ちてきた。気絶みたいに意識が途切れた。
翌朝。目覚ましが鳴り、俺は飛び起きた。喉が痛い。頭が重い。鏡の中には、目の下にクマを飼っている男がいた。俺だ。
「……俺、バカか」
口から漏れた声が、ひどく他人事だった。異世界? 聖女? 召喚? そんなの、疲れた脳が現実から逃げるための便利な物語だ。中二病の再発だ。二十代の後半にもなって、なにやってんだ。
枕元に『聖女召喚』があった。
昨夜、確かに読んだ証拠が、そこに鎮座していた。だからなおさら悪い。夢じゃない。俺は夜更かししてまで、この本を読んだ。現実の時間を削って、ありもしない奇跡にすがった。
その事実が、やけに刺さった。
……それでも。
それでも、ページを開く手が止まらなかった。電車に揺られながら、俺はスマホじゃなく『聖女召喚』を読んだ。満員電車の汗と香水と疲労の匂いの中で、インクの匂いが妙に落ち着いた。
会社に着けば、理不尽なノルマ。数字が足りない。やり方が悪い。気合が足りない。上司は毎日違うことを言って、毎日同じように怒った。叱責。サービス残業。終電。帰宅。風呂に入る気力もなく、布団に倒れ込む。
地獄というのは、抵抗しようという力さえ奪う。
「逃げればいいじゃん」って言うやつを、同じ環境に引きずり込みたい。三日で言わなくなるから。逃げるためには、逃げる体力がいる。逃げるためには、逃げた後に食う金がいる。逃げるためには、逃げてもいいと自分に許す心がいる。
俺には、そのどれも残っていなかった。
だから、枕元の本に戻る。
『聖女召喚』は、俺の最後の“今日”だった。明日になったら、正気に戻ってしまうかもしれない。正気に戻ったら、またいつものように「我慢しろ」と自分を殴るだろう。なら、狂気のまま、やり切るしかない。
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