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御武令嬢 フェザーライトノベル10
第一章 婚約破棄ですって? まあ、悲しい!
父が死んだ。
こう書くと、とても簡単な出来事に見える。実際には簡単ではなかった。三日間ずっと屋敷には人が出入りし、玄関の石床には泥が落ち、使用人たちは黒い服で廊下を行き来し、私は何度も同じ挨拶をした。お悔やみ申し上げますと言われれば頭を下げ、父上は立派な方でしたと言われれば、ありがとうございますと答えた。
父はトレビアンヌ公爵家の当主だった。
名前はロベール・トレビアンヌ。
背が高く、肩幅が広く、何をしていても怒っているような顔をした人だった。実際、私にはよく怒っていた。
「ジャンヌ、走るな」
幼いころ、庭で蝶を追いかければ言われた。
「ジャンヌ、大声を出すな」
犬を見つけて喜べば言われた。
「ジャンヌ、木に登るな」
登ってから言われた。
「ジャンヌ、それを置け」
納屋に立てかけてあった斧を持ったときには、父は椅子を蹴倒して飛んできた。
あのときの父の顔は忘れられない。娘が斧を持っただけなのに、王都へ火竜が飛来した知らせでも受けたような顔だった。
私は素直な娘だった。
たぶん。
少なくとも、父の前では。
走るなと言われれば歩いた。大声を出すなと言われれば小声で話した。木に登るなと言われてからは、登りたくなっても幹を撫でるだけにした。斧については、見るだけなら許されるのか分からなかったので、納屋そのものへ近づかなくなった。
父が私へ望んだものは一つだった。
おしとやかな令嬢。
だから私はおしとやかになった。
歩幅は小さく。
笑うときは口元へ手を添える。
食事では銀器を音を立てずに扱う。
立つときも、座るときも、振り返るときも、急がない。
先生から刺繍を習い、舞踏を習い、詩を習い、歴史を習った。剣術だけは習わなかった。乗馬も速く走らせることを禁じられた。父は馬にも私にも同じことを言った。
「ゆっくりだ」
いま思えば、あの馬とは気が合った。
そんな父が死んだ。
病だった。
最後の一か月、父はずっと寝室にいた。私は毎朝、枕元へ花を持っていった。父は花を見るたびに小さくうなずいた。
最期の日、父は私の手を握った。
「ジャンヌ」
声はもう細かった。
「おしとやかに生きろ」
それが遺言だった。
私は泣きながら約束した。
もっと愛情のある言葉があってもよかったと思う。
愛しているとか、幸せになれとか、アルベール殿下と仲良くしろとか、そういうものだ。
だが父は最後まで、おしとやかにしろと言った。
よほど私がおしとやかでないことを恐れていたらしい。
葬儀が終わった翌日の午後、私は応接室にいた。
窓の外には細い雨が降っていた。
春の雨だった。庭の白い石像が濡れていた。父が好きだった薔薇は、まだ蕾だった。
私は黒いドレスを着ていた。
首には父から渡されたペンダントがある。
銀色の鎖。
青い石。
子供のころから一日も外したことがない。
父はこれについても厳しかった。
「絶対に外すな」
風呂でも、寝るときでも、病気でも、絶対に。
十三歳のとき、鎖が切れかけたことがあった。使用人が修理に出そうとしたところ、父は自分で王宮付きの宝飾師を呼んだ。屋敷の一室に職人を閉じ込め、私の首から外さず修理させた。
職人はずっと腰を曲げたままだった。
私は三時間動けなかった。
途中でくしゃみが出そうになり、あれは人生でも指折りの緊張だった。
そのペンダントを指で撫でていると、廊下から足音がした。
扉が開いた。
王太子アルベールが入ってきた。
金色の髪。
青い軍服。
胸には王家の紋章。
相変わらず姿勢がいい。
私の婚約者である。
正確には、その時点では婚約者だった。
「ジャンヌ」
殿下は私の前に立った。
私は立ち上がり、裾をつまんで礼をした。
「アルベール殿下。わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
私は微笑んだ。
おしとやかに。
父が見ていたなら褒めてくれただろう。
アルベール殿下は座らなかった。
私も座れなくなった。
妙な沈黙が落ちた。
時計の音だけが聞こえた。
カチ。
カチ。
カチ。
こういうとき、時計は急に仕事熱心になる。
殿下は窓を見た。
私を見た。
また窓を見た。
それから息を吐いた。
「ジャンヌ。今日来たのは、公爵の弔問だけが目的ではない」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に小さな冷たさが生まれた。
私はペンダントを握った。
「承知いたしました」
殿下は言葉を選んでいるようだった。
口を開き、閉じた。
また開いた。
「君との婚約を、解消する」
雨の音が聞こえた。
さあ、と庭木を濡らしている。
私は自分の手を見た。
白い手袋。
指先が少し震えていた。
「そう、ですか」
それしか出なかった。
婚約について、私は長い時間を費やしてきた。
七歳で婚約が決まり、十一歳から王宮作法を習った。十五歳から王太子妃教育が始まり、十七歳から国政の基礎を学んだ。
税制。
外交。
農業。
軍制。
王家の系譜。
貴族の席次。
外国の王侯へ手紙を書くとき、どの称号を何番目に書くか。
パンを一つ焼く方法は知らないのに、隣国の王弟へ出す親書の書き出しは三種類知っている。
人生とは妙なものだ。
使う予定だった知識が、たった一言で大量の不用品になった。
私は顔を上げた。
「理由を、お聞きしても?」
殿下は話した。
父が亡くなったこと。
トレビアンヌ家に男子の後継者がいないこと。
領地の一部が王家へ返還される見込みであること。
公爵家としての政治的影響力が急速に失われること。
そして、王太子妃には王家を支える強い後ろ盾が必要であること。
要するに。
父が死んだから、私はもう役に立たない。
そういう話だった。
殿下はもっと丁寧な言葉を使った。
しかし、丁寧に包んでも石は石だ。
投げられれば痛い。
「分かりました」
私は言った。
声は出た。
立ってもいられた。
おしとやかな令嬢というものは便利である。
どれだけ心の中がぐちゃぐちゃでも、背筋を伸ばす方法だけは身体が覚えている。
「長い間、お世話になりました」
私は礼をした。
「ジャンヌ」
殿下の声が少し揺れた。
私は顔を上げた。
殿下は何か言いかけたが、やめた。
それでよかった。
慰められたら、たぶん泣いていた。
いや。
もう泣いていた。
頬に冷たいものが落ちた。
一滴。
二滴。
涙は止まらなかった。
「申し訳、ありません」
声まで震えた。
私は笑おうとした。
父に言われていた。
人前で取り乱すな。
感情を露わにするな。
いつでもトレビアンヌ家の娘として振る舞え。
だから笑おうとした。
だが無理だった。
「私、ちゃんとやっていたつもりでした」
言葉が勝手に出た。
「走りませんでした。大声も出しませんでした。木にも登りませんでした。剣にも触りませんでした。王太子妃になるために、ずっと」
涙が落ちた。
胸元へ。
青い石のペンダントへ。
雫が石の表面を滑った。
その瞬間だった。
ぱき。
小さな音がした。
私は泣きながら下を見た。
青い石に亀裂が入っていた。
「え」
ぱきぱきぱき。
亀裂が広がる。
銀の台座が震える。
殿下が一歩退いた。
私はペンダントを握った。
熱い。
石の奥から何かが脈打っている。
どくん。
胸が鳴った。
どくん。
床が鳴った。
どくん。
窓ガラスが震えた。
私は涙を拭った。
妙だった。
身体が軽い。
腕も。
脚も。
背中も。
頭の先から爪先まで、ずっと身体へ巻きついていた何かが消えた。
息を吸った。
空気が肺いっぱいに入った。
気持ちがいい。
ものすごく気持ちがいい。
「あら」
私は呟いた。
ペンダントが砕けた。
青い石の欠片が床へ落ちる。
その瞬間、応接室の床一面にひびが走った。
壁が震えた。
天井から埃が落ちた。
外で馬がいなないた。
殿下は固まっていた。
私は自分の手を眺めた。
握る。
開く。
もう一度握る。
なんだろう。
とても元気だ。
父が死んだばかりで。
婚約まで破棄されて。
泣いていたのに。
身体の奥から、笑い声が湧いてくる。
「ふふ」
口から漏れた。
私は慌てて手で口元を覆った。
笑ってはいけない。
おしとやかに。
父との約束だ。
そう思った。
だが次の瞬間、もう一つの考えが浮かんだ。
父はいない。
婚約者もいない。
王太子妃にもならない。
では。
私はいったい、誰のためにおしとやかにしているのだろう。
「ふふふ」
今度は止めなかった。
胸の奥が熱い。
不思議だった。
悲しい。
悔しい。
寂しい。
なのに、同時に、とんでもなく爽快だった。
私は顔を上げた。
アルベール殿下と目が合った。
殿下の顔は青ざめていた。
「ジャンヌ」
その声に、初めて聞く種類の怯えが混じっていた。
私はにっこり笑った。
おしとやかな笑顔ではない。
歯を見せて笑った。
子供のころ、庭を駆け回っていたときの笑い方だった。
「アルベール殿下」
私は一歩踏み出した。
ばきん。
足元の大理石が割れた。
私は止まった。
殿下も止まった。
しばらく二人で床を見た。
「まあ」
私は自分の靴を見た。
ただ歩いただけだ。
力を入れた覚えはない。
もう一歩。
めき。
床が沈んだ。
私は顔を上げた。
涙はもう止まっていた。
「わたくし」
胸の奥から、笑いが込み上げてきた。
「なんだか、とても元気ですわ!」
その日。
ジャンヌ・トレビアンヌ十八歳。
婚約破棄。
同時刻。
御武令、発動。
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