うしPのサイト
文学・思想の一丁目一番地
メンデル入門 科学者入門シリーズ7
第一章 修道院の庭から始まる「遺伝」の物語
遺伝学の祖と呼ばれるメンデルは、最初から「遺伝子」という言葉を握っていたわけではない。むしろ彼が向き合っていたのは、当時の人々にとって当たり前すぎて、当たり前ゆえに霧の中に沈んでいた疑問だった。親に似る子が生まれるのはなぜか。似るのに、完全には同じにならないのはなぜか。兄弟姉妹の間で、驚くほど違いが出るのはなぜか。農家も飼育者も、経験としては知っている。けれど、その経験を「説明できる形」にするのは別の仕事だった。メンデルは、その別の仕事を引き受けた人である。
十九世紀のヨーロッパで、科学はすでに大きく動いていた。蒸気機関は社会を変え、化学は物質観を塗り替え、天文学や物理学は自然を数式で語る力を強めていた。一方で、生き物の世界は、観察と分類が強い領域として発展していた。植物や動物を集め、形を比べ、名前をつけ、系統を整理する。これはこれで立派な知の営みだが、「なぜそうなるのか」を突き詰めるための道具はまだ乏しかった。とりわけ遺伝については、説明の仕方が定まっていない。親の性質が混ざり合って子に伝わる、という直観的な考えは広く存在し、あるいは「血が薄まる」「血が濃い」などの比喩も流通していた。しかし比喩は便利な反面、現象を正確に切り分けるには弱い。混ざるのなら、なぜ混ざらずに突然昔の形が現れるのか。薄まるのなら、なぜ薄まらない性質があるのか。そこには矛盾が残ったままだった。
そんな時代に、メンデルが研究の場としていたのが修道院であることは象徴的だ。修道院は祈りの場所であり、規律の場所であり、同時に学びの場所でもあった。時間が一定のリズムで流れ、生活が整えられ、読み書きと記録が尊ばれる。派手な名声や競争の熱狂からは距離がある。しかしだからこそ、長い期間を要する地味な観察に向いていた。遺伝の問題は、ひらめきだけで片づく類ではない。何世代も追わなければならないし、同じことを何度も繰り返す必要がある。修道院という環境は、その「長期戦」を可能にした。
ここで大事なのは、メンデルが単に環境に恵まれたという話ではない。彼の眼差しが、時代の主流とは少し違っていた点にある。当時の自然研究は、美しい多様性に見惚れる方向へ進みがちだった。ところがメンデルは、多様性の中に潜む規則性を探した。言い換えれば、世界を「物語」ではなく「仕組み」として見ようとした。仕組みを見ようとするなら、観察は必要だが、観察だけでは足りない。測ること、数えること、比較すること、そして何より、条件を揃えることが必要になる。ここに、彼の科学者としての性格がある。彼は自然を眺めて感動するだけでなく、自然に問いを投げ、その答えを取り出すための装置を作ろうとした。
メンデルの実験で主役になるのは、エンドウ豆である。エンドウは、ただ身近な植物だったから選ばれたのではない。遺伝を調べるには、「親」を確実に決められることが重要になる。誰と誰を交配させたのかが曖昧なら、結果の解釈が崩れてしまう。エンドウは自家受粉しやすく、つまり自分の花粉で自分の胚珠を受精させやすい。これは、勝手に交雑しにくいという利点になる。逆に、意図的に他家受粉させたいときには、人の手で操作できる。条件を揃えるという点で、エンドウは非常に扱いやすい。さらに、形質の違いが目に見える形で現れる。丸いかしわいか、黄色いか緑か、背が高いか低いか。こうした差がはっきりしていると、観察が主観に流れにくい。つまり、データが作れる。メンデルは、データが作れる世界を選んだのだ。
その選択の背後には、彼の姿勢が透けて見える。遺伝という現象は、生命の神秘と結びついて語られがちで、当時ならなおさら宗教的な感情とも接近していたはずだ。修道士が研究するのだから、神秘の側に寄るのが自然に思える。しかしメンデルは、神秘を否定するのではなく、神秘を神秘のまま放置しなかった。むしろ、神秘に手を入れて、測れるところまで持っていった。これは、ある意味で勇気がいる。測れるようにしてしまうと、世界が急に俗っぽく見えるからだ。だが彼はそこから逃げなかった。測れる世界に落とし込み、結果を見て、そこからまた上へ戻って「何が言えるか」を組み立てる。この往復運動が、科学の骨格である。
うしPのページに戻る