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フレミング入門 科学者入門シリーズ17

まえがき フレミングってどんな人?

アレクサンダー・フレミングの名前を聞くと、多くの人がまず思い浮かべるのは「カビが生えたシャーレからペニシリンを発見した人」という一文でしょう。しかもそれは、まるで漫画のような偶然の勝利として語られがちです。掃除を怠けていたら奇跡が起きた、だとか、運のいい天才が世界を救った、だとか。けれど、フレミングをその一言で片づけてしまうと、いちばん大事なところを見落としてしまいます。彼は偶然に救われた人というより、偶然を見逃さなかった人でした。そして、見逃さないだけでなく、その偶然を「意味のある問い」に変換できた人でもあります。さらに言えば、そうした態度は突然身についたものではなく、時代と経験と性格が折り重なって育ったものです。

フレミングの人生は、派手なカリスマの物語ではありません。研究室で一晩中実験を指揮し、弟子に囲まれ、世界を先導していくような英雄譚とは少し違う。彼はむしろ、静かな観察者としての顔が強い人です。声高に自分を売り込むより、目の前の小さな違和感に目を凝らす。大胆な仮説で勝負するより、確かに見えた事実を丁寧に積み上げる。そういうタイプの研究者です。だからこそ、彼の名を歴史に刻んだ出来事が、劇的な実験の大成功ではなく、日常の延長にあった「変な現象」に始まっているのは象徴的です。科学史には華やかな天才もいれば、執念で押し切る怪物もいますが、フレミングはそのどちらでもなく、「注意深さ」で世界を変えた代表選手だと言えます。

彼を形づくった大きな背景のひとつが、抗生物質以前の世界です。いま私たちは、感染症にかかっても多くの場合は薬で対処できます。少なくとも「傷口が化膿したら命取り」という感覚は薄い。ですがフレミングが生きた時代、細菌感染は日常的な死因でした。肺炎、結核、敗血症、産褥熱。さらには、戦争や事故でできた傷が細菌に汚染され、そこから人があっけなく死んでいく。そういう世界です。つまり、細菌と人間の関係は「病気の一ジャンル」ではなく、生活と死の距離そのものだったのです。この時代感覚を持つと、フレミングが何を見ようとしていたのかが分かってきます。彼が追っていたのは、単なる薬の発明ではありません。「人間の体はどうやって細菌と戦うのか」「消毒や治療はなぜ効かないことがあるのか」という、現場から突きつけられる切実な疑問でした。

その切実さを決定的にしたのが、第一次世界大戦です。フレミングは戦時の医療に関わり、負傷兵の治療と感染の惨状を目にしました。ここで重要なのは、彼が「細菌を殺せばいい」という単純な発想に満足できなくなったことです。当時は強力な消毒薬が信頼され、傷口を徹底的に洗えば助かると考えられがちでした。けれど現実には、消毒薬は細菌だけでなく人間の組織も傷つけ、結果として感染が悪化する場合がある。つまり「強い薬で全部消す」という正義が、必ずしも正解ではない。この矛盾を、彼は現場で思い知らされます。ここがフレミングの出発点のひとつです。彼は、細菌だけを選んで叩く方法、あるいは人間側の防御を活かす方法を考えざるを得なくなった。戦争は人間を壊しますが、同時に、医療の問いをむき出しにして研究者に突きつけもします。フレミングはその問いから目をそらさなかった人です。

もうひとつ、彼の特徴として見逃せないのが「観察の癖」です。フレミングは、実験結果を理想通りに整えるタイプというより、むしろ散らかった現実のなかで意味を拾うタイプでした。研究室の秩序という意味では、彼は決して完璧な管理者ではなかったとも言われます。ですが、その代わりに、普通なら捨ててしまうような失敗や汚染の中から、違いを見抜く目を持っていた。ここが科学者としての彼の核です。ペニシリンの逸話が何度も語られるのは、発見が大きかったからだけではなく、科学の本質を短い物語に圧縮しているからでしょう。偶然は起きる。しかし、偶然が「発見」になるかどうかは、見た人の解釈にかかっている。フレミングは、偶然を運命にする能力を持っていたのです。

とはいえ、彼を過度に神格化するのも違います。フレミングは確かにペニシリンを見つけましたが、それをすぐに万能薬へと仕立てたわけではありません。むしろ、薬として実用化するまでには長い距離がありました。ここが面白いところで、フレミングの偉さは「世界を変える薬を完成させた」点だけにあるのではなく、「完成させる価値のある現象を歴史に投げ込んだ」点にもあります。ペニシリンを薬にしたのは、後の研究者たちのチームワークと技術革新、そして戦時の生産体制でした。つまりフレミングは、個人の発見が社会の力学と結びついて初めて世界が変わる、という現実を体現した人物でもあります。天才一人が全部やったという話は気持ちいいけれど、実際の科学はもっと複雑で、もっと集団的です。フレミングの物語は、その複雑さを理解するための入口にもなります。

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