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ハーバー入門 科学者入門シリーズ32

第一章 ハーバーってどんな人?

フリッツ・ハーバーという名前を聞いて、すぐ顔が浮かぶ人は多くないかもしれない。けれど、もし「現代の人口を支えている発明は何か」と問われたとき、彼の仕事は必ず候補に入る。ハーバーは、空気の中に無限にあるように見える窒素を、作物の栄養になり得る形へ変える道を切り開いた。言い換えるなら、彼は「空気からパンを生む」ための扉をこじ開けた化学者だ。ところが同時に、彼は「空気から死を生む」ことにも深く関わった人物として記憶されている。肥料を生み、食料を増やし、多くの命を救ったかと思えば、戦争のために化学を動員し、人を傷つける側にも立った。この一人の化学者の中に、科学が持つ光と影が、矛盾のまま同居している。

ハーバーが生きたのは、科学が国家の力に直結し始めた時代だった。十九世紀の終わりから二十世紀の初め、ヨーロッパの列強は工業と軍事を競い合い、大学や研究所で生まれた知識が工場や軍隊へ流れ込んだ。化学はその中心にいた。染料や薬品、爆薬、肥料。目に見える形で産業を変え、国家を富ませ、戦争を左右する。研究者の手が、研究室の机から社会の歯車へとつながり、そしてその歯車は、ときに止めどなく回り続ける。ハーバーは、まさにその回転の速度が上がる瞬間を生きた。

彼の人物像を一言で言い表すのは難しい。優れた研究者であり、組織の長としても腕を振るい、強烈な意志で周囲を動かした。野心家であり、国家に認められることを強く望んだとも言われる。人付き合いも得意だった一方で、目的のためには妥協を嫌い、冷たく見える決断を下すこともあった。科学者というと、実験と理論に没頭する孤独な姿が思い浮かびがちだが、ハーバーの姿は少し違う。彼は、化学を「論文にする」だけでは満足しなかった。研究室で実証し、装置として成立させ、さらに工業化へつなげる。つまり、現実を変えるところまでを自分の仕事として引き受けた。そこに、彼の魅力と危うさがある。

ハーバーの代表的な業績は、窒素固定、つまり空気中の窒素をアンモニアという形に変え、肥料や化学工業の原料にする道を拓いたことだ。窒素は空気の大部分を占めているのに、植物はそのままでは利用できない。人間が食べて生きるということは、究極的には土が肥えていること、作物が育つことに依存している。そして土を肥やすためには窒素が必要だ。長い間、人類は窒素を、堆肥や家畜糞、あるいは限られた天然資源から得てきた。近代になって人口が増え、農業の規模が拡大すると、この供給は不安定になっていく。窒素をどう確保するかは、食料だけでなく、国家の存続に関わる問題へと膨らんだ。ここに、ハーバーの研究が“世界史級”になる土台がある。

しかし窒素固定は、単に「空気を材料にすればいい」という単純な話ではない。窒素分子は驚くほど結びつきが強く、簡単には反応してくれない。自然界では雷のエネルギーや、根粒菌の働きなどによって少しずつ固定が進むが、人間が工業的に大量生産するのは別次元の難しさがある。ハーバーは、この「反応しないものを反応させる」ために、温度や圧力を大胆に操り、触媒と呼ばれる助け役を探し、反応が進む条件を粘り強く詰めていった。理論の理解だけでは足りない。装置の密閉性、材料の耐久性、不純物の影響、発生する熱の扱い。現実の問題が次々に立ちはだかる。彼の強さは、こうした泥臭い壁を「科学の側」からだけでなく、「工業の側」からも突破しようとしたところにある。

そして、ここからハーバーの運命は複雑にねじれていく。窒素固定が成功すると、それは肥料として人々を支えるだけでなく、火薬の原料にもなる。国家が求めるものは、いつだって一種類ではない。飢えをなくすことも、軍備を整えることも、同じ化学が担える。発明の価値が大きければ大きいほど、その利用先は善悪の単純な区別から遠ざかっていく。ハーバーが置かれた状況は、科学者が「自分の成果が何に使われるか」から逃れにくくなる状況だったとも言える。

第一次世界大戦が始まると、彼は化学の知識を戦争に動員する側へ大きく舵を切る。ここは彼の伝記の中でも、とりわけ重い部分だ。戦争という異常事態の中で、国家は勝利のためにあらゆる資源を求める。研究所も、研究者も例外ではいられない。ハーバーは、科学が戦争を早く終わらせるかもしれないという考えを抱いたともされる。だが、どれほど理屈を整えても、化学兵器が人間に与える苦痛と恐怖の現実は消えない。科学者としての合理性が、倫理の痛みを鈍らせてしまうことがある。ハーバーは、その危険な地点に立った人物として、いまも議論の的であり続けている。

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