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デニス・リッチー入門 科学者入門シリーズ38

第一章 デニス・リッチーってどんなひと?

デニス・リッチーという名前を初めて聞いた人でも、彼の作ったものを一度も使わずに生きている人は、たぶんほとんどいない。パソコンでもスマホでも、ネットでも、私たちが当たり前だと思っている「コンピュータが動く感じ」の底のほうに、彼の仕事が沈んでいる。だから彼は、目立つ場所に立つ英雄というより、地面を固めた人だ。派手じゃない。でも地面がなければ建物は建たない。デニス・リッチーは、そういうタイプの偉人である。

彼は天才と呼ばれるが、いわゆる漫画的な天才とは少し違う。大声で革命を叫ぶわけでもないし、誰かを打ち負かして勝利宣言をするタイプでもない。むしろ印象としては「静か」「淡々」「実務家」だ。けれど、その静けさの奥に、技術者としての恐ろしい精度がある。彼の文章やコードは、読むと分かる。装飾が少ない。見せびらかさない。読める形で存在している。これは才能というより、思想だ。作ったものを人に渡すことを最初から前提にしている。

デニス・リッチーがどんな人だったかを語るには、彼が生きた場所の空気から入るのが早い。彼が主に仕事をしたのはベル研究所(Bell Labs)という、半分現実で半分伝説みたいな研究所だ。電話の会社の研究部門が、なぜこんなに強かったのか。理由はいくつもあるが、要するに「長い目で見て価値のあるもの」に投資できる環境がそこにあった。新製品の売上のためだけに研究していたわけじゃない。未来の文明の部品を作るような場所だった。天才が集まると何が起きるかというと、天才が互いの背中を当たり前の基準で殴ってくる。普通なら大発見で終わるところが、ベル研究所では「それで、もっと良くできない?」で続いていく。そういう世界で、リッチーは浮つかず、確実に積み上げる側にいた。

彼の代表作は、UNIXとC言語だ。けれど本人は「俺が全部作った」なんて顔はしない。むしろ共同作業の中で、必要なところを埋めていった人だ。UNIXはケン・トンプソンと共に作られた。C言語は、UNIXを現実の道具として成立させるために磨かれていった。そしてその後、C言語はUNIXの外へ飛び出して世界の共通語になった。ここが面白い。もともと目的は、特定のOSを作るための、かなり現場的な事情だったのに、それが世界中のプログラムの書き方そのものを変えてしまった。意図して世界を支配したわけじゃない。ちゃんと動くものを作ろうとしたら、結果的に世界の骨格になった。この「狙ってないのに中心にいる」感じが、リッチーらしい。

リッチーの凄さは、革新的であることと保守的であることが、同じ線でつながっている点にある。普通、革命っていうのは「前を全部壊す」みたいに語られる。でも彼の革命は違う。彼は壊すよりも、つなぐ。過去の技術を踏み台にして、新しい形にまとめ直す。C言語は、アセンブリ言語みたいな低レベルの世界と、人間が読み書きできる高レベルの世界の間に橋を架けた。その橋の強度が異常だったから、みんな渡り始めた。渡った人間が増えれば増えるほど、その橋は文明になる。

しかも、その橋は、渡るためのルールが分かりやすい。C言語は自由度が高いと言われる一方で、危険だとも言われる。実際、間違えれば落ちる。でも「落ちる」ことが起きるぐらい、機械の世界の現実を隠さずに人間に見せてくれる。優しすぎない、という優しさだ。便利な魔法で全部隠すのではなく、理解すれば操作できる道具として差し出している。これは技術者としての誠実さでもあるし、ある種の美学でもある。

デニス・リッチーは、プログラマーにとっての「作法」を作った人でもある。彼がブライアン・カーニハンと共著した『プログラミング言語C』は、単なる教科書ではなく、Cという言語の精神そのものを文章化したものだ。文章もまたリッチー的で、余計なことを言わない。丁寧に説明するが、媚びない。読み手を甘やかさない。その代わり、理解した人には強い武器を渡す。だからこそ、あの本は長く生き残った。

賞の話をすると、彼はケン・トンプソンと共にチューリング賞を受賞している。コンピュータ界のノーベル賞みたいなものだ。でも、受賞の経歴が彼の本質ではない。なぜなら、彼の仕事は「賞を取るための成果」ではなく、「世界が動くための前提」だからだ。多くの人は、成果を目で見て評価したい。ところが基盤というのは、目に見えないほど成功している。水道管が見えないほど生活が成立しているのと同じだ。リッチーは、その水道管を作った人に近い。

そして、彼の人柄を表すエピソードとしてよく語られるのは、彼が驚くほど控えめだったという点だ。ネットで騒がれることも少なかったし、神格化されることも、本人は望まなかったように見える。むしろ、必要な問いに必要な答えを返して、また仕事に戻る。淡々と、しかし正確に。自分の名前を売るより、動くものを残す。その姿勢は今の時代に逆行しているようにも見える。だからこそ逆に、現代の私たちに刺さる。

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