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ピタゴラス入門 科学者入門シリーズ48

第一章 ピタゴラスは“実在”したのか――伝説から始まる科学

ピタゴラスという名前を聞いたとき、多くの人はすぐに「直角三角形の定理」を思い浮かべる。学校の数学で、何度も何度も出てくるあの公式。だが、ここでいきなり意地悪な問いを置いてみたい。――そのピタゴラス本人は、本当に“いた”のか?

こう聞くと、「いや、いたに決まってるだろ」と思うかもしれない。しかし、歴史の世界では、こういう問いはまったく珍しくない。ピタゴラスほど有名なのに、本人が書いた本が一冊も残っていない。手紙も日記もない。本人の言葉が、ほとんど確かな形では伝わってこない。彼が何を考え、何を語り、何をしたのか。それを知ろうとすると、こちらはいつの間にか、伝説と噂と後世の脚色が織り重なった霧の中に足を踏み入れてしまう。

ピタゴラスは紀元前6世紀ごろの人物だとされる。生まれはエーゲ海のサモス島。旅をして学び、のちに南イタリアのクロトンという都市で学派を作った――これが、おおまかな筋書きだ。だが、この筋書き自体が、すでに“だいたいそうらしい”というレベルの話である。しかも、ピタゴラスの伝記を書いた人たちの多くは、ピタゴラスが生きていた時代から何百年も後の人間だった。時間が離れれば離れるほど、話は美しくなる。英雄は盛られる。奇跡は増える。信仰は物語を必要とする。

実際、ピタゴラスについて語られるエピソードには、科学者というより聖人や魔術師のような匂いが漂うものが少なくない。「前世の記憶を持っていた」「動物と会話できた」「金色の腿を持っていた」「川に話しかけた」――こういう話を読むと、思わず笑ってしまうかもしれない。だが重要なのは、笑って終わりにしないことだ。なぜ、こんな話が生まれるのか。なぜ、そんな“神話の上乗せ”が必要だったのか。ここを見ていくと、ピタゴラスが単なる数学者ではなく、古代世界における「知の象徴」に変わっていった経緯が見えてくる。

ピタゴラスは、現代の感覚で言えば「研究者」というより「思想家であり、共同体のリーダー」であり、さらに言えば「宗教的な教師」でもあった可能性が高い。彼が作ったとされるピタゴラス学派は、数学を学ぶだけの学校ではなかった。むしろ、生活そのものが規律に縛られ、秘密を守り、特定のルールに従って生きる集団だったと言われている。菜食主義に近い食事制限があったとか、豆を禁じたとか、沈黙の期間があったとか、妙にストイックな話が多い。数学の教室というより、修道院のような空気がある。

ここで一つ、大事な視点がある。科学というのは、最初から「合理性だけ」でできたわけではないということだ。人間はまず、世界に意味を与えたがる。なぜ雷が鳴るのか、なぜ季節が巡るのか、なぜ病気になるのか。古代の人々は、その答えを神話に求めた。そしてやがて、神話ではなく“秩序”に求めるようになっていく。ピタゴラス学派が追い求めたのは、その秩序の核心だった。つまり、世界はバラバラな偶然ではなく、何か一定のルールに従っているのではないか、という感覚である。

この感覚は、現代の科学者が持つ感覚と驚くほど似ている。もちろんピタゴラスは、今のような実験装置も持っていないし、論文を書く制度もないし、大学もない。だが、世界を「理解できるもの」として扱おうとした。そしてその理解の鍵を、数に見いだそうとした。ここが、ピタゴラスが“科学者入門”シリーズにふさわしい理由だ。

では、史実として確かなピタゴラスは、どこまで捕まえられるのか。慎重に言えば、確実に言えることは多くない。ただし、「ピタゴラスという人物の周りに、数学と哲学を重視する集団が形成され、それが後世に大きな影響を与えた」ということはほぼ間違いない。実在の輪郭が曖昧でも、彼の名前が“知の旗印”として機能したのは確かだ。そしてこの“旗印”は、その後の西洋思想に深く刺さっていく。

たとえば、プラトンである。プラトンは「現実世界の背後には、より本質的な世界がある」という考え方を持っていたが、そこにはピタゴラス的な匂いが濃厚に漂う。目に見えるものは移ろい、真に確かなものは数や形のような抽象的な構造だ、という発想。これが強烈に根付いていくと、数学が単なる計算技術ではなく、世界の真理へ至る道になる。つまり、数学は“便利な道具”から“宇宙の言語”へ格上げされる。

こうして、ピタゴラスは歴史の中で変身していく。最初は一人の人物だったかもしれない。しかし後世の人々にとっては、ピタゴラスは一つの象徴になった。数を崇める者。秩序を信じる者。世界の背後にある見えない構造を求める者。そして何より、混沌の中に「調和」を見つけようとする者。その象徴としてのピタゴラスが、物語を呼び寄せた。奇跡の逸話は、その象徴を強化する装置だった。

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